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軍人は、一度は勝っていなければ評価されない

戸高 軍人は、一度は勝っていなければなかなか評価されません。山下奉文さんは開戦直後に勝ちました。だから周囲の評価は高いのでしょう。

大木 余談ですが、堀さんは幼年学校からドイツ語を学び、ドイツが好きだったため、「君、ドイツのことをやっているの?」と私をわりと気に入ってくれていました。

 そのおかげで、後年得をしたことがあります。堀さんは戦後、防衛駐在官として西ドイツに行きます。戦争中、ドイツの陸軍武官でアルフレート・クレッチュマーという人が東京にいました。そのクレッチュマーが、西ドイツで堀さんと軍の後輩を引き合わせて助けてくれたそうです。

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 私は日独関係を研究していたので、クレッチュマーご本人は無理でも、ご遺族に話を聞くなり史料をもらいたかった。クレッチュマーの娘さんに、堀さんが紹介状を書いてくれたのです。私たちは父が東京でしたことは何も知らないけれど、こういうものがあるからコピーをあげると、おそらくクレッチュマーが東京裁判に出した覚え書きをたくさんくれました。

戸高 それは良い話ですね。史料にめぐりあえるかは、我々には重要なことですから。

なぜ山本五十六にカリスマ性が生じたか

戸高 軍人の評価に戻りますが、一度勝って、最後はいい時に死ぬ。それが軍人にとっては、良い死に方なのかもしれませんね。山本五十六も、完全にそうでした。終戦まで生きていたら、彼はありとあらゆる責任を負わされて大変なことになったでしょう。

山本五十六連合艦隊司令長官が搭乗し、撃墜された長官機

大木 連合艦隊司令長官は、普通1年か1年半でもやったら「長くやった」と思われていましたよね。

戸高 山本五十六は、もっと長く務めていますからね。

大木 昭和14(1939)年に次官から連合艦隊司令長官になり、その後は戦死まで務めました。

戸高 長すぎるんです。本当は、開戦と同時に若い人間と入れ替えるべきだったと、海軍の人も言っていたぐらいです。ただ途中で、山本長官はカリスマ性によって評判が上向いた。「大和」が柱島に泊まっていると、隣の船から若い将校がみな双眼鏡で「大和」と山本長官を眺める。「今日は山本長官を見たぞ」と喜ぶぐらい人気が出て、アイドルのようだったと言います。それで替えられなくなってしまった。しかも、真珠湾で勝ちましたから……。

大木 山本五十六は身長が160センチほどしかない小柄な人だから、おそらく、見るとすぐに山本だとわかり、逆に目立ったのではないでしょうか。