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「記者も読者もなにかホッとした気持ちがした」

 阿部定事件は同年の「二・二六事件」と絡めて論じられることが多い。

 池島信平「雑誌記者」は「あの事件があった時は、あたかも二・二六事件の物情騒然たるときで、われわれは毎日暗澹(あんたん)として日本がどうなるかと思っていた。そのときにたまたまこの情痴事件が起こったのであるが、これを追いかけている新聞記者諸君も、われわれ読者も、その間になにかホッとした気持ちがしたのを覚えている」と書いている。

「軍国主義の風潮が社会を重く覆っていたから、世間の人々は格好の息抜きとしてこの事件に飛びついた」としたのは下川耿史「昭和性相史 戦前・戦中篇」。

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 加太こうじ「昭和犯罪史」阿部定事件の項はこう述べる。

二・二六事件はあっけなく終わったが、それからは国民の間に不安な気分が漂い始めた。今のままで日本はいいのか、世の中は矛盾している。このままでは日本はもっと大きな戦争を始めるのではないか、というような不安だった。それゆえ為政者は国民の気分を転換させる方法はないかと思っていた。折から5月中旬にこの阿部定事件が起きた。為政者の意を体した新聞は、その記事をセンセーショナルに扱った。普通ならそれほど大騒ぎにならなくてもすむような情痴の末の事件が、のちの世までの語り草になってしまったのだと思える。その点では、阿部定という女性はジャーナリズムの犠牲者だったともいえよう。

定が体現した「江戸趣味」「江戸情緒」の最後の残照

 しかし、人々が事件と阿部定の記憶を脳裏に深く刻み付けた理由がほかにもあると思う。その1つは、鬼熊事件とも共通する疾走感だ。

 定は吉蔵と待合では流連するが、いったん外に出ると、その移動はすさまじく速くめまぐるしい。捜査陣も後を追えないほど。そして逮捕されれば、全く否認したり言いよどんだりすることなく、全てをぶちまける。裁判でも控訴はしなかった。その疾走感が、たとえ犯罪であっても一種の爽快感を生んでいる。

 さらに言えば、鬼熊も阿部定も無関係の人に迷惑をかけていない。もっと重要なのは、彼女に社会的な背景が希薄なことだ。あの時代、遊廓や赤線などの「苦界」に身を沈める女性の多くは、凶作で身を売るしかなかった貧しい農村出身者だった。しかし、阿部定が芸者になったのは貧困からではない。そこに阿部定の軽さ、明るさがある。

 性格がルーズでうそつきで浪費癖があるが、損得勘定がない。神田生まれのちゃきちゃきの江戸っ子。1936年5月20日付東朝朝刊は、逃走中の定が2回目に“変装”した古着店の「着物の着こなしが粋で実にうまく、私たちなら小一時間かかるものを5分ぐらいでスルリと着替えました」という談話を載せている。吉蔵がいったん吉田屋に帰っている間に、一人で芝居も映画も見ている。

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 現場の尾久も含め、彼女が動いた大半は下町。江戸時代からの文化は関東大震災で薄れたものの、まだこの昭和10年代初頭はぎりぎり残っていた。それが日中全面戦争から続く太平洋戦争で失われる。事件を彩ったのは、阿部定が体現した「江戸趣味」「江戸情緒」の最後の残照であり、人々は定に懐かしい下町の風景を重ねていたのではないだろうか。