「名文ではあったが…」各新聞も取り扱いに困った判決理由書
判決理由書は、一部を取り上げてみても「淫蕩痴戯の限りを尽くし、互いに陶酔したるか、被告人は吉蔵の右痴戯などに対し、かつて経験したることなき強き愛恋執着を感じ、吉蔵もまた被告人に対する愛欲の絆断ちがたく……」などとなっており、「名文ではあったがエロチシズム横溢。各新聞も取り扱いに困ったというエピソードが残っている」(戸川猪左武「素顔の昭和 戦前」)。
事実、各新聞も掲載せず、代わりに裁判長の「訓戒」を載せた。
「本件が一般社会の注目の焦点となり、かつ喧伝されるゆえんのものは、殺人行為にあらずして、むしろ死体損壊及び、その後の行動の特異性である」と指摘。定が自分の不利益になることも極めて率直かつ積極的に述べたことを評価し、人命尊重や社会的に悪影響を及ぼしたことは重大だが、さまざまな事情を除外して過酷に鞭打つことは当を得ていない、とした。最後に「自省自戒かつ自己の習癖の矯正にさらに一層の努力を」と求めた。
「ショセン私は駄目な女です」
法廷での発言通り、定は控訴せず刑が確定。手記によれば、同年12月26日、栃木女囚刑務所で服役を始めた。冬は寒さで過酷だったようだが、1940年の「皇紀2600年」の恩赦で減刑され、1941年5月、刑期を終えて出所。その後は名前を変えて暮らし、ある男性と同棲。戦中、戦後はひっそりと世に隠れて過ごした。
しかし、1947年7月、折からの「カストリ雑誌」ブームに乗って、木村一郎「昭和好色一代女・お定色ざんげ」という本が出版された。「これは単に一編の小説」と「序」にあり、予審調書が基になっているが、阿部定は「ウソだらけの、私を侮辱し、吉蔵をかわいそうなエロ男に書いてあり」(手記)、「とても耐えられない」として著者と出版社を名誉棄損で提訴した。そのことから“正体”が明るみに出て同棲相手は去った。
その後は本名で劇団の座長となり、事件を題材にした舞台に主演。作家・坂口安吾と対談したり、映画に出演したりした。東京・上野の小料理屋の女中頭やおにぎり屋の女将などを務めた後、千葉県市原市の知人のホテルにいたが1974年、「ショセン私は駄目な女です」という書き置きを残して姿を消す。
その後、浅草の旅館に1980年までいたというが、「ちょっと行ってくる」と言い残してどこかへ消えた。井出孫六「時代の気流を変えた阿部定事件」=「東京歴史紀行 昭和史の現場を歩く」(「エコノミスト1986年4月号)=は「I市の老人ホームに生き続けていることを僕は伝え聞いた」と書いたのが足どりの最後の情報か。最近まで足どりを追っていた人もいたが、結局つかめなかった。もし生きていれば115歳だが……。