完結編を満たし、支えたのは声優たちの声
ある意味では凡庸で泥臭いその完結編を支えたのは、25年前に庵野秀明自身が集めた声優たちの肉声だったと思う。心を閉じ、食事さえ吐き戻して拒否する碇シンジがなぜ再び立ち上がるのか、理屈や思想で観客に説明する名場面や名台詞が映画にあるわけではないのだ。
完結編を満たしているのは、かつてこの物語を語り始め、人々を惹きつけた緒方恵美たちの声である。暗黒の夜空の東が青く光り始め、やがて血のように赤い朝焼けの後に昼の青空の光が訪れるように、碇シンジの心の変化を表現していくのは、緒方恵美が演じる繊細な声の変化だった。
いつかこの瞬間、碇シンジの『幼年期の終わり』を演じる時のために、緒方恵美は一方で肉体の時間を止めるように14歳の声を維持し、もう一方でその変化を演じる力を25年かけて用意してきたのではないかと思えた。
それは他のキャラクターたちと、それを演じる声優においても同じだ。アスカ役の宮村優子はバセドー氏病と橋本病という2つの大病を経験し、一時は『名探偵コナン』の和葉役の降板を申し出るほど舌が回らなくなった。ケンスケ役の岩永哲哉も、ヒカリ役の岩男潤子も声優活動を一時休止するほどの病気を経験している。
エヴァの声優たちの中に、この25年間を鼻歌を歌うように気楽に生きてこられた者はいない。緒方恵美の自伝で語られる、秋葉原の実家がバブルとその破綻で借金の返済に追われる様はまるで日本経済の縮図だ。
年齢を重ね、傷や病を抱える彼ら声優がある時は時を止め、ある時は人生の時間を進めるように碇シンジや周囲の人物に声を吹き込む時、描かれた絵にすぎないはずの映画には生の感触、人間の匂いが満ちていた。そして『エヴァ』という物語の本質はたぶん、最初からそこにあったのだと思う。
四半世紀前、『もののけ姫』と『エヴァ』が同時に公開された時、『生きろ。』と『だから、みんな死んでしまえばいいのに…』という2作のコピーが批評家たちによく対比された。to be or not to be、生きるべきか死すべきか。生きろなどという啓蒙的な宮崎アニメのメッセージに比べ、庵野映画に漂うタナトスがいかに文学的であるかを批評家たちは論じたものだ。
だがシン・エヴァにはもう、死への欲動も生への啓蒙もない。そこにあるものはbe,「ただ生きている」自分たちの現実と、傷つきながら26年後を生きる声優たちの肉声だった。