招致が成功したとたん「復興五輪」は消えていた
驚いた。2度目の東京五輪招致は「アメリカ国歌を何度も聞いて、本当に悔しかった」という石原慎太郎の個人的な憤慨から始まったのである。
そこに役人が「復興五輪」と味付けした。たとえば被災地での聖火リレーや五輪宝くじの収益金の分配など、五輪を通じて復興を後押しする“報告書”も作成された。
ところが…
《13年9月に東京五輪開催が決まると、都が「復興五輪」へ突き進む姿は見えなくなり、報告書はいつしかホームページから削除された。事業が実現したかの組織的な検証もされず、今では五輪関係者でさえ報告書の存在を知る人は少ない。》(毎日新聞・同)
なんと招致が成功したとたん「復興五輪」は消えていたのである。
その一因には「海外では原発事故による放射線被害への懸念が強い。復興五輪をアピールするのは逆効果になるとみて、被災地への支援の感謝を示すにとどめ、大会運営力の高さなどを訴えた」という狡猾な戦略も見え隠れする。
しかしまさに今「大会運営力」が問われているのは皮肉だ。
五輪招致に心が折れた石原を懸命に説得したあの人物
ここで時系列を整理しよう。
石原都知事は五輪招致に一度敗れている。「2016年大会」に名乗りを上げたが落選している(2009年)。そのあと「2020年大会」へ動いた。
実は石原慎太郎は2009年に落選したとき「もうこんなもの、俺はやりたくねぇや」と五輪招致に心が折れていたという。
すると、
《ぼくは「それはないよ」と必死だった。》
ある人物が石原を懸命に説得するのである。それは誰か?
お待たせしました、森喜朗さんです!
このくだりは『日本政治のウラのウラ 証言・政界50年』(田原総一朗との共著/講談社)に書かれている。