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五輪報道の潮目が変わった
東京五輪はここまで政治と密接にからんでいた。
そりゃ菅首相が五輪開催にこだわり、国民を感動させた勢いで衆議院解散という戦略にとらわれても不思議はない。石原慎太郎が五輪開催に求めた「国威発揚」と「総裁選」のどちらも菅首相の解散戦略に入っているではないか。五輪の私的利用は権力者のお約束なのである。
ただ、ここ1週間ぐらいで五輪報道の潮目が変わったようにみえる。
東京新聞は演出家の宮本亞門の「罪悪感」を載せた。
《2013年の招致決定当初、「世界一お金がかからない五輪」や「復興五輪」といった発言を信じようとした。これだけ政府が断言するのだから、と。17年には大会の公式イベントの演出を引き受けた。
しかし大会経費は倍以上に膨れ上がり、福島第一原発事故の後処理も進まない、全て誘致のための架空のものだった。悲惨な現実を見て「何ということに加担してしまったんだ」と罪悪感にさいなまれました。》(5月8日)
朝日新聞の「天声人語」はここにきて踏み込んできた。
《みなに慎重な行動を促す一方で、東京五輪は開くと言い続けるなら、政府みずから緊張感を緩めているようなものだ。五輪の中止を判断することが、いまや行動変容の必要条件ではないか。》(5月7日)
なにか世の中が騒然としてきたが、私はまず「東京五輪は石原一家の気まぐれが原点」という拍子抜けの共有を提案したいと思います。
開催の理念なんて最初から無かったのですから。