藤井とは半年前にアベマトーナメントでチームを組んだ。そのときの練習でフィッシャールールでは指していたので、プロ入り後の初対局という意識はなかった。だが今回は持ち時間が各3時間。早指しの練習将棋とはまったく違う。
新聞掲載の観戦記を担当したのは、女流棋士の渡辺弥生だった。初の東大出身の女流棋士だが、将棋を本格的に始めたのは23歳と晩学で、女流育成会に入会したのは26歳だった。記念対局を戦う二人とは対照的な経歴である。渡辺は年齢制限まで3年しかない中で、「もしプロになれなかったら、観戦記者として将棋を観ていきたい」と思っていた。29歳で女流棋士デビューを果たし、対局・活動と並行して多くの記事を執筆している。
この日、渡辺は二人の集中力が研ぎ澄まされているのを感じた。持ち時間の長い対局では、相手が離席すると残った棋士の多くは緊張から解かれて表情が緩んだり、呟いて溜息をついたりする。だが藤井と伊藤は相手が席を立っても、無言のまま盤にのめり込むようにして読み耽っていた。
先手番の決まっていた伊藤は作戦を用意していたが、藤井の積極的な指し手に押され、徐々に形勢に自信を失っていく。62手目に藤井が7一金という絶妙手を放つと、中盤でもあるにかかわらず、その時点で投了も考えたという。
「指す手が見つからない。かなり痺れました。でも観ている人も多い中で、ここで終わりにするわけにはいかなかった」
局面を複雑化し、なんとか紛れを生む形にできないだろうか……。しかし優勢になってからの藤井の慎重さを伊藤は思い知らされる。アクロバティックな大技を好んだ、子ども時代の面影はなかった。
反撃を挑むが逆転できず「完敗としか言いようがない」
盤側で観ていた渡辺も「藤井竜王にここまで差をつけられたら、諦めても不思議はない」と話す。だが伊藤が前傾姿勢のまま体を前後に揺らしているのを見て、(まだ何か狙っているな)と思った。棋士が体を揺らすのは読みを深めている証拠だ。
終盤、藤井が勝負を決めに出た手が、伊藤の意表を突いた。
「普通の棋士ならリスクがあるので踏み込みづらいはずです。やはり読みの裏付けがあるから指せるのかなと」
際どくなった局面に、控室はざわついた。だが伊藤は自分が逆転には足りないことをはっきり感じていたという。
終局後、感想戦をする二人は疲労を微塵も感じさせず、目を輝かせていた。互いに欲していた対話だった。
渡辺は、伊藤が奨励会三段で出場した新人王戦でも観戦記を担当したことがある。その対局に伊藤は勝ったが、終局後も顔が強張ったままだった。しかしこの日の感想戦では、表情が和む様子が印象的だった。
伊藤に渡辺から聞いた今回の感想戦での様子を伝えると、「そうですか」と少し意外そうだった。自分では負けた直後で悔しさしか感じていなかったという。将棋の内容については、「完敗としか言いようがない。現時点での力の差がかなりあることを再認識しました」と答えた。