二刀流という点だけで見れば、レジェンド選手のベーブ・ルースをも上回った大谷翔平。大谷が「神話の中の人物」とも呼ぶルースは、いったいどれほどの選手だったのか? そして大谷はそんなルースを超えられるのか? 在米ジャーナリストの志村朋哉氏の新刊『ルポ 大谷翔平』より一部を抜粋。(全3回の3回目/#1、#2を読む)
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ベーブ・ルースVS大谷翔平
二刀流という点だけで見れば、大谷は100年前のベーブ・ルースをも上回ったと言える。
ルースは打者としての才能に気づいてからは、自ら投手を辞めた。大谷は自らの意思で両方をやり続ける道を選んでいる。分業制が進み、ルースの時代とは比較にならないほど選手層が厚い現代では、二刀流は不可能と言われたにもかかわらず。
時代が違いすぎて無意味という人もいるが、大谷が「神話の中の人物」と呼ぶルースがどれほどの選手だったかを理解するためにも、二人の成績を比べてみよう。
ルースが本格的な二刀流をやったのは1918年と1919年の2年間だ。今回は、「二桁勝利・二桁本塁打」を成し遂げた1918年の成績を見てみよう。大谷がメジャー挑戦のために23歳で海を渡るちょうど100年前である。ルースも同じく23歳だった。
この年は、第1次世界大戦の影響で、予定されていた154試合が短縮されて、ルースが所属していたレッドソックスは、レギュラーシーズンでは126試合しか戦っていない。当時は各リーグ8球団と、今の約半分のチーム数しかなかった。ア・リーグで1位に輝いたレッドソックスは、ナ・リーグの覇者シカゴ・カブスを4勝2敗で破り、ワールドシリーズで優勝した(この後、レッドソックスはルースをヤンキースに金銭トレードで放出し、長らく優勝から遠ざかったため、「バンビーノの呪い」としてジンクスになった)。
それまでのルースは、左腕の先発投手として活躍していた。1917年はメジャー3位の24勝を挙げ、防御率はリーグ11位の2.01だった。打撃では、142打席で2本塁打、打率3割2分5厘、OPS.857を記録したが、打席に立つのは、投げている時に限られていた。