繁華街の惨劇
手榴弾を投げつけた男はすぐに店から逃走を図っており、通りがかりの男性がその現場を見ていた。
「フルフェイスの黒いヘルメットに着衣も黒ずくめの男が逃げ出してきて、店の中から従業員らしき4、5人の男が追いかけてきたんです」
男は店員たちに押さえつけられて、まもなく死亡した。
死因は窒息だった。
店員たちが数人がかりで押さえつけた際に胸部が圧迫されたことによる。
店員たちにすれば、なんとしても逃すことはできないという意識しかなかったはずだ。
この実行犯は、工藤会系の組員(30代)であることが判明している。
防犯カメラの映像からは、この実行犯は一度、店内に入りかけながらもいったん店を出て、また踵を返して店内に戻って犯行に及んだことがわかっている。どうしてそういう行動をとったのかを確かめることはできないが、ホステスたちのいる場所に手榴弾を投げ込むのがためらわれたからではないかという見方もされている。
そのように逡巡したとしても、結果的には実行しないわけにはいかない。そういうところからも工藤会という組織の厳しさが推し量られる。
爆発音に驚いて近くの店の従業員も飛び出してきただけでなく、通行人たちも集まってきていた。繁華街での大騒動なのだから当然である。
救急車も駆けつけ、店の中からは女性たちが次々と担架で運び出された。手足にひどい傷を負い、おびただしい出血をしている女性もいた。爆発で飛び散った破片などが刺さったのか、両足に無数の傷があり、出血していた。
事件当時、県警北九州地区暴力団犯罪対策室の副室長として工藤会捜査の先頭に立っていた藪正孝氏は、連絡を受けて駆けつけた現場の状況について、定年退職後にまとめた『県警VS暴力団』(文春新書)の中で次のように詳述している。
「私が到着すると、すでに負傷者は救急隊が病院に搬送し、店の関係者らは小倉北署で事情聴取中だった。私は応急的に現場を検分した。手榴弾の破片が飛び散り、付近を破壊しているはずだが、そのような痕跡はない。だが、ソファがひっくり返り、爆発現場の壁板が割れていた。壁板を隔ててトイレがあったが、小便器が粉々になっていた。店内のガラス窓は上から壁紙が張られており、壁にしか見えないようになっていたが、爆発現場付近の窓は全て内側から外にガラスが砕け散っていた。つまり強烈な爆風が生じたのは間違いない」
このとき使われた手榴弾は米軍製のもので、爆風の威力が強い攻撃型手榴弾だったのだという。不完全爆発でなかったならどうなっていたのかと、あらためてぞっとする。
安倍元首相も被害者に!
ぼおるど襲撃事件の背景として、暴力団の資金源の変化をあげる関係者は少なくない。
1992年に暴力団対策法が施行されて以来、暴力団の資金源は細る一方になっていた。
暴力追放運動が広まり、小倉の繁華街でも「みかじめ料を要求されたらすぐ警察に電話する」という飲食店経営者は増えていた。
暴追運動に携わる弁護士は「暴対法施行で旧来型の集金構図が崩れるなか、恐怖で支配するという彼らの行動原理は尖鋭化しつつあったのかもしれない」と指摘する。