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 文書が外交官のスピーチや優秀な中国人学生のレポートのような雰囲気を漂わせていることや、内容が中国外交部の記者会見内容にぴったりと一致したものであることも、こうした背景を踏まえて考えれば納得がいく。

 直近の『週刊文春』記事によれば、被害男児の父親は兵庫県尼崎市出身の1986年生まれ。龍谷大学在学中、交換留学生に選ばれて上海師範大学に留学したとみられ、現地で後に男児の母となる中国人女性と交際、大学卒業後に再び上海大学で3年間学んでいる(私が在日中国人筋から聞いた未確認情報では上海師範大学の修士課程に在籍したともいう)。その後、語学力を見込まれてN社の幹部から直接スカウトされた模様だ。

 過去には、被害男児の父親とほぼ同世代で同じく中国留学歴を持つ加藤嘉一氏が、中国の『人民日報』にコラムを寄稿するほどハイレベルな中国語力を獲得した例がある。学習意欲が高いまじめな人物であれば、この世代の長期留学経験者が中国語の極めて高いレポート作成能力を持つことはあり得ない話ではない。現在はAIがあるので、もともと一定以上の語学力を持つ人であれば、ネイティブが読んでも違和感がない完璧な中国語文書を作ることはいっそう容易だ。

 現代中国語の文章能力を得る過程では、中国社会を覆う「政治的に正しい」コンテクストを内面化させることも必要になる。今回の事件の被害児童は日本人と中国人のハーフだったが、日本側の父親についても、他の一般的な日本人駐在員とは異なるバックグラウンドを持つ男性だと考えたほうがいいだろう。

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中国当局が愛国主義キャンペーンをおこないすぎた結果

 今回の事件について、日本の報道では中国の「反日教育」に原因を求める主張が目立つ。ただ、反日教育自体は過去30年も続いており、いまに始まった話ではない。2010年前後に中国で反日デモが頻発した際、デモの現場やネット上には日本人への加害を直接的に示す過激な文言も大量に出現していたが、過去に政治的動機からその言葉を実行した中国人はほとんどいない。

 それが今年に入り、6月の蘇州事件、今回の深圳事件と、短期間に2回にわたって「日本人」の子どもに刃物を向ける事件が連続した。これは近年の中国に、慢性的な反日教育とは別の、人間をより具体的な凶行に駆り立てる要因が存在するためだ。

 コロナ禍以降の中国では西側諸国を敵視する傾向が強まり、中国政府は福島原発の処理水排出問題をめぐって国内向けに大規模な反日キャンペーンをおこなった。こうした風潮のなかで、近年になり流行したショート動画アプリでは、インプレッションを稼ぐために情緒的な反日動画が大量に投稿されている。特に日本人学校については「スパイの拠点」「軍国主義者の治外法権」といった陰謀論が、近年に入って大量に流されてきた。

 この風潮に昨今の中国経済の低迷と社会の閉塞感が加わり、いわゆる「無敵の人」(失うものが何もない人)が暴発しやすくなっていることが、蘇州事件や深圳事件の要因として大きく関係していると考えられる。

 近年の中国では、通り魔的な無差別殺傷事件が多く起きており、ネットでは「献忠」という俗称もある(「献忠」は明代末期の四川省で大虐殺をおこなった武将の名前が由来だ)。そして、どうせ「献忠」をやるならば、ネットでバズっている日本人学校の子どもを狙おうという変質者の動機づけが生まれやすい社会になっている。

 今回の事件は、中国当局が愛国主義キャンペーンをおこないすぎた結果、暴発して日本人学校児童に「献忠」の矛先を向けた人物が、こともあろうに中国共産党の「日本側協力者」に近い価値観を持つ人物の子どもの生命を奪ったという構図がある。あらゆる意味で中国側の完全な失策だ。

 複雑なイデオロギーの狭間で将来を絶たれた男児の冥福を祈るとともに、再発防止に向けた日本政府の毅然とした姿勢を心から望みたい。

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