終戦の御聖断と論語の御進講

日本再生 第80回

立花 隆 ジャーナリスト
ライフ 歴史

 最近私のところに、山内廣隆広島大学名誉教授から『昭和天皇をポツダム宣言受諾に導いた哲学者 西晋一郎、昭和十八年の御進講とその周辺』(ナカニシヤ出版)という著書が送られてきた。タイトルにひかれて、ヘェそんなことがあったのかとパラパラめくってみるとこれが妙に面白かった。御進講とは、明治のはじめから、宮中行事として行われる講書始(読書始)の儀式のことで、毎年1月はじめに当代一流の学者がよばれてそれぞれの専門分野がいまどうなっているかそのエッセンスを伝える儀式的講義である。天皇皇后のみならず皇族方も列席し、文部(科)大臣、日本学士院会員、日本芸術院会員なども陪聴する。

 この昭和18年の講書始は、西晋一郎が漢書を講義し、他に和辻哲郎(京都帝大)が和書を講義し、本多光太郎(東北帝大)が洋書を講義した。

 西は今でこそ名前を知る人がほとんどいないが、当時は京大の西田幾多郎と「2人の西」とならび称せられたほどの大倫理思想家で(国家主義的国体の思想家として往時もてはやされたが〔著書70冊余〕、昭和18年病没した)、広島大学では、「西はこのときすでに敗戦を覚悟し昭和天皇に敗戦時の心構えを説いた」と伝えられてきた。敗戦2年前とはいえミッドウェーでの敗北を期に戦局を知る者にとっては、すでに日本の敗北必至(ガダルカナル敗走が目前)の情勢が見えていた。だが本当に国家敗北となったら、為政者たる者どうすればいいのか。

「すでに敗戦を必至であると信じていた西は『論語』顔淵篇の『子貢政を問う』を引用して、やむを得ないときは軍備を撤廃し、さらにやむを得ないときは経済を捨てるが、しかし宇宙の根本である道徳を撤廃することはできないという趣旨の話をした」(加藤尚武『鳥取市人物誌』)。考えに考え抜いて選ばれた引用文で、敗戦の際の対処の心構えを天皇に伝えたのだという。

 西が引用した『論語』のこのくだりは、「政治」と「信」のつながりを語る最も有名な「子貢政を問う」の一節である。ある日、弟子の子貢が「政治で最も大切なものは何ですか」と孔子にたずねた。孔子は「まず食を与える。兵による防御力を与える。それによる安心感(信頼感)を与える。この3つが同じように大切だ」と答えた。だが、「その3つが(財政難などで)どうしても同時に与えられないときはどうすればいいですか?(究極の選択として何から切り捨てますか)」と子貢がさらに問うた。孔子はこう答えた。「まず兵力をあきらめろ。次に食をあきらめろ」

「食がなければ死んでしまうではないですか」と食いさがる子貢に、孔子はこう答えた。「人間はいずれ死ぬものだから、それも仕方がない。しかし、信の問題だけは政治の根本だから、最後まであきらめてはならない。政治は信なくてはたたず。下の者は上に立つ者を信じ、上に立つ者は下に居ならぶ者を信じなくては、そもそも社会がなりたたない」と答えたのだ。この上下の信頼関係を孔子は政治のかなめと考えていた。「信」の内容=何をどう信じるかについては、いろいろ議論があるが(荻生徂徠と伊藤仁斎では、民が上の者を信じるか、上が民を信じるかの違いがある)、政治のかなめはいつでも、安全保障と食糧(経済)問題と社会の上下間の信頼関係問題に帰着するというわけだ。日本の軍備放棄策(憲法九条)は誰が決めたのかについては議論がいろいろあるが(日本が決めた、アメリカが押しつけた、など。マッカーサー回顧録でも、鈴木貫太郎自伝でも日本側がいい出したことになっている)、実は孔子が早くから、そんなものは真っ先に捨てていいものだとしていたわけだ。

 あの戦争の最終段階で、ポツダム宣言受諾(日本国の敗戦受諾)を最終的に決めたのは昭和天皇の決断であり、その後の連合軍の進駐から占領過程を経て、戦後日本の再出発過程を次々に決めていったのは、天皇の連続決断だった。その背景には、西博士の昭和18年御進講の記憶があったと山内氏は言うのだ。

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source : 文藝春秋 2018年01月号

genre : ライフ 歴史