私は1940年(昭和15年)生まれ。終戦時5歳であるから、戦時中の記憶は、ほとんどない。きわめて断片的な記憶があるにはあるが、その大部分が、終戦まで北京にいた(父親が日本の文部省から派遣されて北京一中の副校長をしていた)ときのもので、リアルな戦争中の日本の生活体験ではない。まして、あの戦争の現場で起きたことについては記憶めいたことのほとんどが、映画あるいはテレビのドキュメンタリーを通じて作られたものだ。
つい先だって、NHKスペシャルで『戦慄の記録 インパール』(8月15日)というドキュメンタリー作品が放送された。インパール作戦は、先の戦争で行われた最も悲劇的かつ最も愚劣といわれる作戦だ。3個師団を投じ8万人もの死者(その大部分が餓死者と病死者)を出しながら、何の成果もあげられずに終った。これはビルマ方面軍の作戦として行われ、インドのアッサム州まで侵入して、インド独立を目指すチャンドラ・ボースの軍と協力して、南方戦線における連合軍と日本軍の勢力バランスを一挙に引っくり返そうという壮大な作戦だった。しかし、実際には、現代の戦争の勝敗を左右するのは半分以上が血を流す戦場での戦いより補給戦という常識を忘れた日本軍が、兵力補給にも、食糧補給にも失敗して完敗する結果(餓死者、病死者続出)に終った。
今回のNHKのドキュメンタリーでは、イギリスの戦争史博物館の全面的協力を得て、白骨街道といわれた日本人の死体ゴロゴロの街道の様子などを詳細に描いている。
私には、インパール作戦について、若干の個人的思い出が強くある。
インパール作戦が最初に映画で本格的に描かれたのは、有名な学徒兵の手記をもとに作られた『日本戦歿学生の手記 きけ、わだつみの声』(東横映画製作、関川秀雄監督)だった。インパール作戦で死んだ兵隊には学徒兵が多かったのだ。小学5年生のとき私はこの映画を見ており、インパール作戦というと、この映画でジャングルの中で次々に命を落していく学徒兵たちの姿が目に浮かんでくる。この文章を書くにあたって、DVDを取り寄せて、再見したが、いたるところで、小学生時代に見た記憶がよみがえった。日本軍(学徒兵)が太平洋戦争の末期、あのような凄惨な最期をとげていたとは夢にも思わなかったから、印象はあまりにも強烈だった。この映画のおかげで、私は長らく、あのインパール作戦の実際の戦場風景を肉眼で見たかのような思いにとらわれていた(フィクショナルな映像と現実の取りちがえ)。しかし、今回のNHKの『戦慄の記録』に含まれていた白骨街道に転がる日本兵たちの文字通りの死屍累々の現実のリアルな歴史的映像(銀バエがたかって動いていた)を見て、自分はリアルな現実を何も見ていなかったのだと思った。今回のドキュメンタリーに映る日本兵の死体は、疑いようもなく歴史的現実としての死体だと思えた。NHKには他にもインパール作戦を描いた作品があるが、これまで歴史的現場に入れないなどの制約があったため(今回はじめて諸制約がとけた)、作戦の全貌を十分に描いていなかったのだ。
だが、私は今回の作品にも満足していない。それはインパール作戦における最大の問題点を今回もまた等閑視しているからだ。インパール作戦の実行部隊である三つの師団のうちの一つ第三十一師団の長、佐藤幸徳中将が、公然と上からの命令を拒否するという、日本陸軍の長い歴史の中で起きた唯一の命令拒否事件を描いていないのである。
インパール作戦の司令官に任ぜられたのは、中国戦線で盧溝橋事件を起した冒険主義的性格を持つ牟田口廉也中将だった。インパール作戦は牟田口司令官の発案によるものだったが、発案の初期段階から、実務的性格を持つ軍人からは、補給面の弱さを指摘する声が強くあがっていた(その一人が佐藤中将)。作戦が実行段階に入ってから、補給面の弱さが、物質的に現実に強くあらわれてきた。佐藤中将はその問題点を上層部に強く訴えたから、途中で何度も物資補給の確認(いついつまでに〇〇を〇トン、どのように配送するなど)を求めていた。口約束だけですまそうとする牟田口に対し、現実味のある補給なしにはこちらも兵力を出せない(場合によっては命令をきかないこともあるぞ)などの通告を発することもあった。そしてインパール作戦の最終段階において、佐藤中将は、牟田口司令官に対して、命令拒否を正面切って行った上、この問題では軍法会議も辞さずという最後通告を行った。この反抗的態度に困り抜いた上層部は、佐藤中将は精神の異常で、そのような行動に出たとして、精神科の医師を派遣するなどしたが、騒ぎが続くうちに戦争が終り、ことはウヤムヤになってしまった。本人は死ぬまで正しいのは自分で誤っていたのは牟田口司令官だとの主張を続けた。このような日本軍始まって以来の抗命事件がインパール作戦の陰で起きていたのである。
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