「鱗が見えた」。スパイ活動の決定的瞬間をカメラがとらえた
国家安全保障局長の職を辞する数日前の2021年7月初旬、私は内閣府別館の執務室で私物の整理に当たっていた。「断捨離」が進み、机上には使い込んで古びた木製印鑑ケースだけが残っていた。ケースは、ある事件の容疑解明の功により、警視庁公安部外事一課が警察庁長官賞と警視総監賞を受賞した際の記念品である。
それは、容疑解明期間が1995年から2年以上に及んだロシアによるスパイ事件であるが、手口の面からも時間的・地理的スケールの面からも、戦後の日本外事警察が取り組んだ中で、間違いなく難易度第一級の作業だった。捜査は、95年3月23日、西側情報機関から警察庁外事課に寄せられた極秘情報から始まった。
情報は、大要以下のようなものであった。《「黒羽一郎(くろばいちろう)」という貴国の国民になりすましたロシア連邦対外情報庁(SVR)のイリーガルスパイ(国籍を偽るなど身分を偽装して入国しスパイ活動を行う者)が、貴国を拠点に軍事情報、貴国の産業情報等を収集する諜報活動を展開しているとの情報があるので、確認を願いたい》
第一報が寄せられた月の初め、私は在フランス大使館での勤務を終え、外事課次席の理事官(警視正)に就いていた。理事官の本来業務は課長(警視長)の秘書的な役割のほか、警備局内外各部局との連絡調整、課内の庶務全般の統括から突発事案対応、局長、課長の特命事項の遂行に至るまで幅広い。だが、当時の主な任務は、(1)3月20日に地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教のロシアとの協力関係の実態解明、(2)地下鉄事件発生同日にルーマニアで身柄を拘束された「東アジア反日武装戦線・大地の牙」元構成員、浴田由紀子(えきだ・ゆきこ)元受刑者の日本への安全かつ早期の護送――の2点であった。
オウム真理教のロシアコネクション解明では、特別編成されたプロジェクト・チームの調整を担った。浴田元受刑者の護送に関しては、対象者が1974年の三井物産爆破事件で逮捕された後、1977年のダッカ事件において、日本赤軍の要求に基づき超法規的措置で釈放され、国外へ逃亡したという経緯から、奪還テロ等を含む妨害工作にも神経を使っていた。
「黒羽・ウドヴィン事件」と後に呼ばれるこの事件の第一報が寄せられたとき、私は外事課庶務室の一角にある自席で、「オウム」、「浴田」の両オペレーションに関する報告や問い合わせ電話への対応に忙殺されていた。西側機関からの情報を伝えてきたのは、同盟国や同志国の治安・情報機関との連絡調整に当たる「渉外担当」の筋伊知朗(すじ・いちろう)課長補佐だったが、にわかには信じがたい内容だった。
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source : 文藝春秋 2023年1月号