2人兄弟の弟で、小さいころは、2つ上の兄が友だちと遊んでいる中に適当に入れてもらうことが多かった。鬼ごっこをやっても、鬼にはならなくていい。鬼にすると、誰もつかまえられず、いつまで経っても終わらないからである。俗に言う「みそっかす」。
なので、自分が中心になって何かを動かしていく、ということが全然なかった。「リーダーシップ」とか「イニシアチブ」とかを幼年期にまったく学ばなかったわけである。国際的な大事件が起きたときに、日本がひとまず「諸外国の動向」を見守り、先頭に立って物事を動かすことはまずないのを見ると、ああ自分は典型的な日本人なのだなと思う。
30代なかばで翻訳に天職を見出したのも、ふり返ってみればいかにも自分らしい。訳す作家は、少なくとも最初のうちは、ほぼみんな自分より年上の男性。兄としての作者、弟としての翻訳者。ポール・オースターのように、すぐれた翻訳者でもある書き手と話していると(要するに、向こうはこっちができることをおそらくはこっち以上に上手にできるが、こっちは向こうができることはできない)、本当に自分があまり出来のよくない(だが幸い寛容な兄を持つ)弟になった気がする。
さらにふり返ってみれば、翻訳以外の仕事も、だいたいそういう「兄と弟」的な構図だった。30代〜40代のハイライトは、東大駒場でやった英語教育の改革で、これは多くの人間が関わった大仕事だったが、一番中心にいたのは佐藤良明さんである。佐藤さんの壮大なビジョンを、柴田を含むほかのメンバーたちが現実的に実行可能なところに落とし込んでいった、というふうにあのプロジェクトは要約できる気がする。その仕事の話題から始めてまとまった共著エッセイ集が『佐藤君と柴田君』と題されていて『柴田君と佐藤君』ではなかったのは、単に五十音順、年齢順というだけの話ではない。
そもそも駒場という場所が、同じ東大でも、守るべき伝統を持つ「中心」の本郷に対して、好き勝手にやっていい「周縁」という立場にあった。なので、40代半ばで本郷の文学部に移ることになったときは、いよいよ自分も中心に立つのだ、弟を卒業するのだ、という気負いも少しはあった。が、行ってみれば、本郷全体にあって、文学部という組織自体が「周縁」なのだった。「中心」はもちろん医学部や工学部。
21世紀に入り、こっちも50代に入って、その周縁たる文学部が活性化を図って「現代文芸論」なる学科を作り、お前らやれ、と言われて沼野充義君と僕が新学科の運営にあたったわけだが、若いころから大学内外でロシア文学界を動かしてきた沼野君は、視野の広さ、人脈、行動力等々すべて柴田君の優に100倍あり、ここでもやはり「沼野君と柴田君」なのだった。
当然、誰が見ても、学部全体を運営する執行部にも沼野君が組み込まれるのだろうと思え、教授会で副研究科長(要するに副学部長)を選出する日となり、今年あたりきっと沼野君当選だなー、気の毒にーなどと気楽に選挙に臨んだらなんと自分が当選してしまい、2年間、まったく無能な副研究科長として、誰も幸せにしない(そして自分も幸せでない)日々を過ごしたあと、そのまま研究科長(要するに学部長)にも選ばれそうな勢いだったので、さっさと早期退職することにした。思えばあれが(いくら「周縁」の文学部とはいえ)「中心」に立つ最後のチャンスだったわけで、いわば「敵前逃亡」したわけだが、毎日好きに時間が使えるようになって、明るいうちから銭湯に行ってお湯にどっぷり浸かったりするたび、ああ逃亡してよかった、と思ったものである。
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source : 文藝春秋 2023年9月号