人と共同体の深部に迫る一冊
知人の娘さんが通う小学校のクラスでは、「ものの貸し借り」が禁止されているそうだ。体育の帽子を忘れた友達に、たまたま持っていた予備分の帽子を貸そうとしたところ、先生から止められたという。以前、貸した借りたでトラブルにでもなったのだろうか。持ち物には必ず自分の名前を書き、自分のものは自分だけが使い、他人には使わせない。今どきの小学校は、何とも世知辛い「世間」である。
所有とは、あるいは所有権とは何だろうか。著者が問題にするのは、それが本来は個人の自由と独立と安全を護るために作られた考え方であるはずなのに、現代社会ではそれが強迫的なまでに主張され、かえって足枷になっているという事態だ。一方には所有の根拠を問う哲学や法学の原理論。他方にはくらしの中で互いにうまくやるために作られていった慣行。臨床哲学を率いてきた著者らしく、問いは「抽象的な理念」と「具体的な現場」のあいだから生まれている。
その答えもまさに「あいだ」に見出される。だがそこに至るまでの道のりが何とも長い。そもそも本書は構想から30年以上を経て書かれており、ページ数にして570ページ、文句なしの横綱級だ。しかもその議論のほとんどは「抽象」のほうに割かれている。連載をもとにした26の章は、著者の言葉を借りるなら、所有をめぐるさまざまな哲学者の議論を「トレース紙に図示して重ね、差異を読み込む」ような緻密な作業。所有論の体裁をとった哲学史ともいえる内容である。
そんな重厚な所有論において、名脇役をつとめているのは「身体」概念である。それは本書の最初から最後まで顔を出し、議論に奥行きを作り、絶妙に風向きを変え、要所で論点を総括する役割を果たしている。
そもそも、近代市民社会のルーツに位置付けられるジョン・ロックの所有権論が、身体との関係で規定されている。人は、自分の労働によって得たり作り出したりしたものは、自分のものとしてよい。なぜなら、その労働をなした身体は、その人に固有のものなのだから。つまりロックにおいては、「この体は誰にも侵されない」という人が自身の身柄に対してもつ所有権が、それ以外のあらゆるものに対する所有の根拠になっているのである。
しかしそもそも、私たちは自分の身体を「所有」しているのだろうか?「わたしは身体をもつ」という言い方からして、わたしが身体の外に出られないことを考えるとなんだか奇妙だ。しかし他方で、わたしたちは自分の体を完全に意のままに操れるわけでもないから、わたしはわたしの身体の主人とも言い難い。身体はまぎれもない「わたし」としてしかありえない一方で、決して「わたし」のものにはなりえないという、所有論にとってやっかいな存在なのだ。
ならば、私たちが自分の所有物と称しているものは、むしろ託されたもの、一時的に預かっているものと捉えたほうがよいのではないか。終盤、著者の議論は「所有」から「受託」へと向かう。所有は私的かつ排他的だが、受託は公的であり責任を伴う。
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