人間でなければできない翻訳がある
最近はいい翻訳ソフトが次々に登場しています。気楽に使えるものとしてはGoogle翻訳がありますし、DeepLを使う人も増えました。この調子だと、いずれ翻訳者は不要になるのではないかとの声も聞かれるようになりましたが、そんなことはありません。人間でなければできない翻訳があることを本書は豊富な例を挙げながら論じています。言葉の背景への洞察がないままの逐語訳によって、戦争が長引いたり、生命の危機をもたらしたりする可能性もあるというのです。
たとえば、ポツダム宣言を受諾するかどうかの日本政府の判断の英訳が不正確だったために広島への原爆投下につながった事例は有名です。当時の鈴木貫太郎首相はポツダム宣言に関して「ただ黙殺するのみ」とコメントしました。鈴木首相は「ノーコメント」の意味で使ったというのですが、アメリカの新聞では「ignore」(無視する)と訳され、「ニューヨーク・タイムズ」は、「日本、連合国の降伏勧告を公式に拒絶」という見出しで伝えました。日本はポツダム宣言を受け入れる意思がないと判断され、広島や長崎への原爆投下につながったとされます。
最近の例で言えば、イラン国内での反米デモで参加者が「アメリカに死を」というスローガンを叫んだと報道されますが、これが「アメリカ打倒」と翻訳されると、脅迫的なニュアンスが少し薄まります。
東西冷戦時代の1960年、アメリカを訪問したソ連のフルシチョフ首相にアメリカの記者が「ソ連は月に人間を送る予定なのか」と質問した際、ソ連側の翻訳者は「送る」という英語の表現をロシア語の「投げる」という意味の言葉に翻訳しました。これを聞いたフルシチョフは激怒。「投げるとはどういう意味だ。ソ連は国民を大切にする国だ」と反論しました。一つの言葉の翻訳のニュアンスの違いが紛争を引き起こしかねなかったのです。
「翻訳者が本当に気にしているのは、言葉そのものではなく、その意味である。意味を変えずに翻訳するには、原文の馴染みのない表現を聞き慣れた表現に言い直して理解しやすくすることもできるし、訳文に異国の調べをいくらか残してそれがそのまま伝わるようにすることもできる」
さて、翻訳ソフトにこんな芸当ができるのでしょうか。
ある言語特有の格言や熟語を直訳したのでは意味が通らないことがあります。このときは、翻訳先の言語の中から似たような表現を拾い出して置き換えなければなりません。これは、それぞれの言語の文化的背景と伝統に精通している人間にこそできることですし、それを臨機応変に使いこなさなければなりません。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!
初回登録は初月300円
月額プラン
1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
900円/月
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事、全オンライン番組が見放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 毎月10本配信のオンライン番組が視聴可能
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年6,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2024年6月号