アンナ・アスラニアン著 小川浩一訳「生と死を分ける翻訳 聖書から機械翻訳まで」

文藝春秋BOOK倶楽部

池上 彰 ジャーナリスト
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人間でなければできない翻訳がある

 最近はいい翻訳ソフトが次々に登場しています。気楽に使えるものとしてはGoogle翻訳がありますし、DeepLを使う人も増えました。この調子だと、いずれ翻訳者は不要になるのではないかとの声も聞かれるようになりましたが、そんなことはありません。人間でなければできない翻訳があることを本書は豊富な例を挙げながら論じています。言葉の背景への洞察がないままの逐語訳によって、戦争が長引いたり、生命の危機をもたらしたりする可能性もあるというのです。

アンナ・アスラニアン著 小川浩一訳『生と死を分ける翻訳 聖書から機械翻訳まで』(草思社)2750円(税込)

 たとえば、ポツダム宣言を受諾するかどうかの日本政府の判断の英訳が不正確だったために広島への原爆投下につながった事例は有名です。当時の鈴木貫太郎首相はポツダム宣言に関して「ただ黙殺するのみ」とコメントしました。鈴木首相は「ノーコメント」の意味で使ったというのですが、アメリカの新聞では「ignore」(無視する)と訳され、「ニューヨーク・タイムズ」は、「日本、連合国の降伏勧告を公式に拒絶」という見出しで伝えました。日本はポツダム宣言を受け入れる意思がないと判断され、広島や長崎への原爆投下につながったとされます。

 最近の例で言えば、イラン国内での反米デモで参加者が「アメリカに死を」というスローガンを叫んだと報道されますが、これが「アメリカ打倒」と翻訳されると、脅迫的なニュアンスが少し薄まります。

 東西冷戦時代の1960年、アメリカを訪問したソ連のフルシチョフ首相にアメリカの記者が「ソ連は月に人間を送る予定なのか」と質問した際、ソ連側の翻訳者は「送る」という英語の表現をロシア語の「投げる」という意味の言葉に翻訳しました。これを聞いたフルシチョフは激怒。「投げるとはどういう意味だ。ソ連は国民を大切にする国だ」と反論しました。一つの言葉の翻訳のニュアンスの違いが紛争を引き起こしかねなかったのです。

「翻訳者が本当に気にしているのは、言葉そのものではなく、その意味である。意味を変えずに翻訳するには、原文の馴染みのない表現を聞き慣れた表現に言い直して理解しやすくすることもできるし、訳文に異国の調べをいくらか残してそれがそのまま伝わるようにすることもできる」

 さて、翻訳ソフトにこんな芸当ができるのでしょうか。

 ある言語特有の格言や熟語を直訳したのでは意味が通らないことがあります。このときは、翻訳先の言語の中から似たような表現を拾い出して置き換えなければなりません。これは、それぞれの言語の文化的背景と伝統に精通している人間にこそできることですし、それを臨機応変に使いこなさなければなりません。

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source : 文藝春秋 2024年6月号

genre : エンタメ 読書