小鳥の体温
済州島――チェジュ島、という島の名前を私は知っていた。韓国の歴史に詳しいとはいえない私でさえ、なにかとてつもない過去を持つ島であると。だから予期していたのは半分はそういう歴史的な事実であり、もう半分はハン・ガンがそれをどう描くのかという興味だった。
でも、読み始めて強く感じたのはもっとなにか得体の知れない不安だ。主人公キョンハは作者の自伝的要素が強いといわれる小説家なのだが、彼女の精神状態が心配になってしまう描写がしばらく続く。読み進めるにつれて不安は強くなる。どうやらこの本は、遺書さえしたためている主人公の震えるような声を必死で書きとめようとしている。けれどもなぜ主人公がこうも追い詰められなければいけないのかがなかなかわからない。しかも、私的な苦悩に苛まれていた主人公が唐突に課せられたのは、工房で誤って指を切断して入院した友人インソンから頼まれた「インコに水をあげて」という、それだけみれば些細としかいいようがない課題なのだ。自分の入院で誰もいなくなった済州島の自宅にインコがいて、2日はまだ持つかもしれないけど3日は無理だから、行ってお水と餌をあげてほしい、と。
その日は雪が降っていた。済州島までは飛行機で約1時間半、そこからはバスだ。主人公は雪で欠航になる直前の便でどうにか島に着きバスに乗りこむが、バス停の名前もよく覚えておらず辿り着ける自信もなく、始終、戻ろうかと考えている。
ところが気がつくと読者は主人公に導かれ、いつのまにか夢か現かが判然としない幻想的な世界にいて、死んだはずのインコがいたり病院にいるはずのインソンがいたりする。キョンハは彼女と一緒に映画を撮る約束をしていたが、予定が合わなかったり撮る気力がなかったりで先延ばしになっていた。彼女と語り合ううち、主人公は済州島に封じられた過去を知っていく。そしてその歴史の凄惨さゆえに、私たちは深海の深みに落ちていく。まだ底につかない、まだ落ちる、まだ深い。
いつしか歴史は過去であることをやめ、触れられるほどの距離にある。読みながら、インソンの持つろうそくの火が消えないようにと祈る。
読み終えて残るのは、小鳥の鼓動のようにかすかに温かくてどうしようもなくもろい、だからこそ全身全霊で守らなければならないなにかを知ってしまったという感覚だった。私は、描かれた歴史にだけでなく、キョンハにもインソンにも、別れを告げたくないと思う。
作者はこの小説のテーマを「済州島四・三事件」「死から生へと越えていく」などさまざまに形容しながら執筆していたが、最終的には「愛について」だと語ったという。小鳥の体温のような「愛」を描く作家の、柔らかく深い感性に瞠目する。
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