戦前戦後を通して、歌手、俳優として活躍したエノケンこと榎本健一(1904〜1970)は、「日本の喜劇王」と呼ばれた。作家・小林信彦氏がその足跡を辿り、エノケンの魅力が味わえる映画を選ぶ。
榎本健一は〈エノケン〉の名で今日まで知られる。生家はエノケンの誕生後、麻布霞町で武蔵野せんべいを開業、大ヒットで麻布十番にせんべい工場を作った。健一は祖母アサには甘えていたが、義母には反抗的だったといわれる。小学校時代の健一は、勉強ぎらいのいたずら小僧で、身体は小さいが、すばしっこく、浅草へ行ってオペラを見ながら、満州で馬賊になることや、アメリカへ行くことを考えていた。役者ならオペラがいいだろうと、浅草オペラ(これがすでにインチキくさいが)の幹部、柳田貞一を紹介される。1922年、17歳の時である。浅草オペラの全盛時代であり、翌年、根岸歌劇団の正月公演の二のかわり「猿蟹合戦」の子猿の1匹で、ご飯をこぼし、拾って食べるというアドリブで注目された。健一の天衣無縫が人々の喝采を浴びた最初で、同年9月、関東大震災でオペラブームは消えたものの、ギョロ眼にガラガラ声、アドリブが売りの健一は、関西へ下って京都の東亜キネマ撮影所に入り、29年7月に浅草水族館2階で旗揚げしたカジノ・フォーリーに参加、座長は石田守衛。ここでの大活躍がエノケンの名を広めた。
それまでの日本の喜劇が曾我廼家(そがのや)を主流としたのに対し、アメリカのスラップスティックコメディタッチに近い、アドリブ・ギャグを織り込んだエノケン喜劇。28年、女優・花島喜世子と結婚し、32年7月に松竹と契約、11月からエノケン一座になる。やがて36年2月には松竹の劇場に出ずっぱりのところ、「エノケンの法界坊」を有楽座でやることになる。正にエノケンの時代といえる。(私が生れたのは、エノケンが初期の映画を大いに作り始める少し前の32年12月だから、エノケンの息の長さがわかる)
1967年春、日本テレビの井原高忠ディレクターは坂本九のテレビ番組「九ちゃん!」の重要ゲストとして〈エノ様〉(井原さんは、こういう言い方をした)を登場させたいと考え、柳橋のエノケン宅を訪問すると言った。
「小林さん、おたく、柳橋、くわしいんじゃない? 九坊一人だとヤバいから、顔を出してくれない?」
私は柳橋のとなりの両国という町にいた。と言っても、戦争で内風呂(うちぶろ)が焼けてしまったあと、柳橋の銭湯に通った程度の土地勘であり、くわしくはない。やれやれ、私は面倒だったが、坂本九の手前、そうするしかなかった。柳橋の大先生の家は大きくはなかったが、小さくもない。少し早く着いたので、大先生は10分ほどたってお帰りだった。旅興行で南の島へ行ってきたという。坂本九も駆けこんできて、大先生は少しもズレていないとヨイショする。
大先生は手術で片方の足をなくしているのだが、「私を放り出す芝居の時は思い切って投げ出して下さい」などとコワいことをおっしゃる。私が神経を使っているのは、そういうことなのだが。
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