阿部定 恋の炎を凍結した

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「愛した男を殺し、局部を切り落とす」という事件の猟奇性で、“昭和の妖婦”と呼ばれた阿部定(1905〜没年不明)。評伝小説『二人キリ』でその生涯に迫った作家の村山由佳氏が、彼女の意外な実像を語る。

 かつて私が阿部定に抱いていたのは「アレを切り取った猟奇殺人犯」というイメージ。ですが、テレビ番組の阿部定特集のゲストに呼ばれた際、彼女の供述調書を読んで印象が変わりました。生い立ちから犯行の様子までつぶさに明かしており、その語り口は、あれほど直情的な事件を起こした人とは思えないほど自身を客観的に見ているように感じられたのです。

阿部定 ©文藝春秋

 裕福な畳職人の家に生まれた定は流転の人生をたどります。そこには15歳で大学生に強姦され、非行に走り、満足な教育も受けられないまま父親に売られ……という経緯がありました。芸妓から娼妓になり、各地を転々としたこと。女中奉公していた料亭の主人・石田吉蔵と恋仲になり、待合での行為の最中に彼を殺し、男性性の象徴を切り取っただけでなく、大切に持ち歩いたこと。逮捕された際に、それを取り上げられると半狂乱になったこと。5年で出所後、身元を隠してサラリーマンの男性と平穏な生活を送るも、自身について書かれた本に激怒し、提訴したせいで素性がバレて夫と別れたこと――。知れば知るほど、その人生に引き込まれていきました。

 逮捕後、獄中の定にはファンレターがたくさん届き、出所後は坂口安吾に熱望されて対談するなど、ファム・ファタルのような存在になりました。世間がこれほどまで定に熱狂したのは、時代背景も大きいのでしょう。事件が起きたのは昭和11(1936)年5月。3カ月前に二・二六事件があり、戦争に向かい、閉塞感が漂っていた時期。そんな時代において定と吉蔵は自分たちの男女の営みしか頭になく、世間、ましてや国の行く末なんか一切考えていなかった。本人たちはまったく意識しなかったでしょうが、どんなアナキストよりもアナーキズムに近かったともいえます。

 なぜ定は、愛する男を殺したのか。事件の日、2人は寝る間も惜しんで繋がっていて、ほとんど寝ていなかった。また、待合を渡り歩いている最中も、吉蔵は一旦金策のために自宅に帰っており、定には「奥さんとも行為をしたに違いない」という嫉妬もあった。殺した後に待ち受けていることにまで考えが及ぶ状態ではなく、吉蔵の首を絞めた時に定が抱いていたのは必ずしも「殺意」ではなかったように思います。

 実は、事件が起きたのは2人が恋仲になってから、わずか2カ月後。もし関係が1年、2年続いていたなら彼女は吉蔵を殺していなかったでしょう。恋の炎は、どんなに激しく燃え上がっても、永遠に燃え続けることはない。色褪せる前に、彼女はその恋を自らの手で終わらせ、愛しい部分を切り取ることで思い出を凍結しました。その気になればねじ伏せて抵抗し、全力で逃げることもできたはずの吉蔵にもまた、「いつ死んだって構わねえ」といった厭世的な思いがあったのかもしれません。

一生に一人の男

 昭和44(1969)年に公開された映画『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』では、定自身がインタビューに応じ、「人間だから浮気くらいのことはあるにせよ、本当に心の底から好きになる相手は一生にたった一人なのじゃないかしら」と語っています。実際、彼女は、出所後も恋愛に相当するようなものを何度か経験していますが、精神的にも肉体的にも無防備に自分をさらけだせた相手は吉蔵だけだったのでしょう。“一生に一人の男”を愛しすぎたのが、定という女性なのです。

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source : 文藝春秋 2024年8月号

genre : ライフ 社会 昭和史 ライフスタイル