自らも従軍して最前線に立った吉田満(1923〜1979)が戦艦大和の出撃から沈没までを綴った名作『戦艦大和ノ最期』が誕生した背景を、長男の吉田望氏が語る
昭和20(1945)年の終戦直後、「大和」に乗艦しながら九死に一生を得た経験をもとに、父・満は『戦艦大和ノ最期』(後に創元社)を書きました。当初は『創元』という雑誌に発表されるはずでしたが、GHQの検閲によって全文削除されました。そのことからもわかる通り、当時は戦争を語ること自体が、戦争を肯定しているように受け止められる可能性があったのです。
『戦艦大和ノ最期』は疎開先の奥多摩で会った作家・吉川英治さんからの勧めにより、一晩で書き上げたと聞いています。文語体で、かつ漢字とカタカナで綴られており、現代では読みづらい作品ですが、淡々とした文体のリズムと刻一刻と変化する戦況が詳細に語られる表現法によって、臨場感が醸し出されています。
しかし満は、自らの戦争体験を家族に話すことは、ほとんどありませんでした。父には沈没した大和と共に命を落とした約3000人の仲間がいます。生還者として、死者の思いを背負って、その後の人生を歩んでいた。軽々に壮絶な経験を口にすることは、憚られたのでしょう。
満はいわゆるブルジョアの家庭に育ち、幼い頃からクラシック音楽などに親しんでいました。祖母によると、旧制東京高等学校時代から筆で日記を書く習慣があり、漢文の素養もあった。また、大和では副電測士として艦橋におり、当日の戦闘記録係を命ぜられていた。さらに目で見た風景を写真のように脳に記憶する「映像記憶」の才も持ち合わせていた。いくつかの奇跡が重なり、戦争文学史に残る名作が生まれました。
戦争の最前線に身を置いた軍人が、戦記を書くことは滅多にありません。戦記物の執筆者の多くは戦争を俯瞰的に見ていた上官です。その理由は、最前線に立つのは圧倒的に20歳前後の若者が多く、そもそも命を落とす危険が高いからです。当時22歳だった満は、あくまで語り部に徹して自身の感情描写は抑え、克明に大和の最期と今際の際に立った日本兵の心情を描いた。名作でありながら、異端の作品になったのは、そのためです。
父の世代は約4割の日本人が戦死したと言われています。偶然にも、そして幸運にも生かされた戦争サバイバーとして、満は昭和20年12月、日本銀行に入行します。満には、自分たちの世代の代表者のような気持ちがあったそうです。そして戦後は企業人の立場で、日本を良くしようという想いと義務感を持って、生きていくことになります。
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