『鬼平犯科帳』『真田太平記』など数々の作品を世に送り出した、戦後日本を代表する時代・歴史小説家の池波正太郎(1923〜1990)。作家の今村翔吾氏は子供の頃に出逢った一作が忘れられないという。
池波正太郎の遺した文章に触れると、夏の景色が何故か脳裡に過ぎる。燦々と降り注ぐ陽射し、噎(む)せ返るほどの青葉、清らかなる風がさらりと吹き抜け、地に浮かんだ茫とした影が揺れる。不思議なことである。
何もずっとという訳ではない。物語次第である。寒さに凜と締まった江戸の冬が、一つとして同じ色の無い落葉の秋が、山々に目をやりながらぽつぽつと歩く麗らかな春が、鮮明に想像の中に描かれていく。
が、やはり最初は夏だ。小説ではなく、エッセイならば猶更。本を開けば、夏がどっと押し寄せて来る。
私は京都府相楽郡加茂町、現在の木津川市の生まれ。この地域は京都というより、文化的にも、生活圏的にも、奈良に限りなく近い。日常の買い物はともかく、ちょっと小洒落た服や、贈答品を買い求めるには、奈良に足を向けるのが常である。
昭和の香りが多分に残る平成7(1995)年の7月、齢11になったばかりの私が、母の買い物に付き添ったのも奈良の町であった。母の用事がひととおり終わり家路に就こうとする最中、とある古本屋の前で、私の眼に飛び込んで来たもの。それが積み上げられた池波正太郎の『真田太平記』の全巻であった。それまで本をまともに読みもしなかった私が、あれを読みたいとねだったのである。そして、夏休み中に一気に全て読み終えると、自分の町の小さな書店に走り、池波正太郎の他の本を買い求めた。以後、様々な歴史・時代小説家の本を読み、遂には書き出し、今に至るという訳である。
最初の一作、それに出逢った瞬間の映像は、克明に今も瞼の裏に焼き付いている。この時が夏だったから、池波正太郎の文章を読む度、夏を感じるのではという仮説である。
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