福井謙一(1918〜1998)は、物質が化学反応を起こす際の電子の役割を説明した「フロンティア電子軌道理論」で、昭和56(1981)年にノーベル化学賞を受賞した。新聞記者として親交を深めた馬場錬成氏がその素顔を綴る。
福井先生がノーベル賞を受賞したときは不意打ちを食らい、紙面を作るのに大変苦労した。テレビのインタビューで「受賞は意外でしたか」という問いかけに、そうではないというニュアンスで語っていることが印象に残った。福井先生と初めて会ったのは、受賞後の1988年、学長をしていた京都工芸繊維大学の学長室だった。読売新聞は「ノーベル賞受賞者日本フォーラム」という科学啓発のイベントを開催することになり、担当になった私は受賞者に参加依頼をしていた。
フォーラムの開催要項を書いた書面を見ていた先生は「こういうものは私の性に合わない」と言って参加を断ってきた。「書いてあることはお金のことだけだ」と先生は言う。謝礼、交通費、宿泊費などだけ書いたような文面だった。しまったと思った。趣旨を盛り込んだ書面を再度お持ちすることを約束し、フォーラムへの参加をやっと取り付けた。
先生は様々な用件で、しょっちゅう上京する。面談する機会を重ねているうち、レストランで夕食のお相伴をする機会があった。願ってもないチャンスである。寡黙な先生から話を引き出そうと質問した。「フロンティアという言葉は、ケネディ大統領を思い出させますが、理論化学にこれを使ったのはどうしてですか」。とたんに雄弁になった。
「たくさんある電子のうち、最前線(フロンティア)にいる電子しか化学反応に関与しないという意味でフロンティア軌道理論と名付けた」と言う。出来の悪い学生に教えるように、先生はテーブルの端に指で円を描き「軌道を回る電子のうち、特定の電子によって化学反応が説明できることを計算で示した」と丁寧に説明する。なるほどと分かったように思ったのは、ま、錯覚だった。そのとき、きいてみた。ノーベル賞受賞は予想していたのか。
「財団に私を推薦した有力な方がいて、ファックスでその推薦状を送ってきた」。送り主は言わなかったが、後々、先生とのお付き合いの中でその方は、77年に「散逸構造の理論」でノーベル化学賞を受賞したベルギーのイリヤ・プリゴジンだと確信した。受賞者からの推薦が、選定できわめて有効であることを関係者から聞いて知っていた。
91年、ノーベル財団は創設90周年を記念して、創設者のアルフレッド・ノーベルの命日12月10日に、世界中の健在な受賞者を集めて記念式典を行うことになった。先生も出席することになり、私も取材で同行した。ホテルで福井先生から「困ったことができた」と連絡が来た。文化勲章と勲一等旭日大綬章の二つを忘れてきたという。スウェーデン国王が列席する式典では、受賞者は勲章を着用するしきたりになっている。日本から送ってもらうのでは間に合わない。「天皇陛下様からいただいた勲章を忘れるとはどういうことですかと、家内にはひどく𠮟られました」と子どものように困った顔をされた。結局、勲章は友栄夫人が知人に託して急遽日本からストックホルムまで運んでもらい式典に間に合った。
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