古井由吉(1937〜2020)は特異な文体で現代文学の新たな地平を切り拓き、『杳子』(昭和45年)、『槿(あさがお)』(昭和58年)、『仮往生伝試文』(平成元年)などの作品を残した。長年、親交のあった作家の島田雅彦氏がその横顔を綴る。
古井さん自身は「内向の世代」を「見た目通り、世間から関心を抱かれているとは全然思っていない」作家グループと考えていた。作家のキャラクター商売が成り立たなくなった時代に、大学教師をやめ、流行作家の道も断念し、ひたむきに「言葉に仕える」決心をしたのは、古井さんが32歳の時だった。すでに妻子持ちで、著作もなく、緻密な生活費の計算をしての決断だった。少年時代の戦争体験と結核療養は、古井文学の主要モチーフとなる独自の死生観やエロティシズムを育み、ムージル、ブロッホなどのドイツ文学の研究、翻訳は空前絶後の小説言語の開発の出発点となった。
東京で空襲を受けた市民の複雑微妙な心情に触れていたためか、理念的な人道主義や平和主義には与(くみ)しなかった。またアメリカに対しては生涯を通じて、沈黙を通し、反米なのか、親米なのかも不明のまま冷淡な態度を貫いた。
多くの作品で短編連作の形態を取っているが、それが自身のリズムやスタイルに最適だったのだろう。語り手や登場人物は日々の暮らしの反復の中に生じる小さな波乱や亀裂を丹念に拾い上げ、折々の心境を情景描写の中に溶かし込んでゆく。古井さんは度の強い眼鏡越しに常に対象の微細な差異を観察していた。人の表情に見え隠れする喜怒哀楽、欲望、言動に現れる乱れや狂いもつぶさに窃視していた。また、窃視を気取られないように眼差しを曖昧にしていた。作者の複雑な心情や探究心を反映し、俳句的な風流と科学的な分析が同時に現れる特異な作風だった。
「老い」と「死」は50代の頃から古井さんの一貫したテーマだったが、晩年の作品は文字通りの「あの世通信」だった。生々しい他者としての死者の声がどの作品からも聞こえてくる。「死人に口なし」どころか、雄弁な死者たちはこの世に自由に出入りし、生きている者と交わる。夢幻能の世界同様、死者も生者も対等で、どちらも半分生き、半分死んでいて、互いに影響を及ぼし合っている。古井さん自身もコロナ禍の只中に、ちょっとあの世に出かけてくるという感じで亡くなり、法事もなかったので、まだひょっこり行きつけの酒場に現れそうな気がしてならない。
ギリシャ悲劇への沈潜
ある日、思い切ってご自宅を訪ね、遺影に線香を上げ、遺影相手にウイスキーを飲みながら、未亡人から文豪の日頃の生活ぶりを伺ったことがあった。亡くなる直前まで小説を書いていたが、執筆に従事するのは1日2、3時間のみ。食前の2回の散歩と食後の2回の昼寝は欠かさなかったというから、1日の大半を睡眠と散歩に割いていたのだ。何度か新宿を一緒に歩いたことがあるが、ゆっくりとした足取りで、何処か遠くを見つめ、心定まらぬ様子で、時々独り言など呟きながら、歩く姿が印象に残っている。夕食後の2回目の昼寝から起きると、読書の時間だった。読書ノートを熱心につけていて、それを見せてもらうと、ギリシャ語とドイツ語が手書き文字で書きつけられていた。60を過ぎた頃から20代の頃に学んだギリシャ語の勉強を復活し、ギリシャ悲劇を原文で読んでいたのだ。文豪は原文の一字一句に拘泥し、それをドイツ語に変換し、さらに日本語の語感に当てはめて解釈していたので、ほとんどギリシャ語の単語や言い回しの語源、起源を確かめるような読み方をしていたようだ。
ギリシャ悲劇には親や子ども、妻や夫、友人を殺された者の凄まじい悲しみと憎悪が刻みつけられている。理不尽な悲劇に直面した登場人物は復讐の女神の力を借り、周到にその準備を進めるが、敵の妨害や反撃に遭い、紆余曲折を経て、自らも危機に陥りながら、予想を裏切る方法で見事に復讐を果たす。復讐は弁証法を用いた論理展開に見事に当てはまるので、結末に至って主人公は新たな境地に導かれ、観客はカタルシスと感動の恩恵を受ける。「憎悪をバネに書いている」というようなことを酒場で本人の口から直接聞いたことがあり、「温厚な古井さんが……」と面食らった。憎悪の力は創作意欲にも転化しうる。仙人のように達観しているかに見えて、古井さんはギリシャ悲劇から憎悪の補給を受けながら、心中では世界と苛烈な戦いを繰り広げていたのだと今にして思う。
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