経済学者の宇沢弘文(1928〜2014)は、新書で『自動車の社会的費用』(昭和49年)を発表するなど、社会をより良くするための経済学の研究に身を捧げた。その薫陶を受け、経済学者となった松島斉氏が師から受け継いだものとは。
宇沢弘文先生は、経済学の枠を超えた革新者でした。先生は、経済学が社会や環境の問題に真摯に向き合うべきだと説き、その重要性を全身で示されました。先生のゼミ生だった当時、合理的期待形成理論が経済学界を席巻していました。先生はそれを「制度の役割を放棄した空論」と厳しく批判されました。その指摘は、貧困や差別、環境破壊といった現実の問題に目を向けさせるものでした。
ワグナーの「パルジファル」の物語を思い出すことがあります。この物語には、深い傷を負った王アムフォルタス、その傷の意味を理解できなかった若者パルジファル、そして聖杯の守護者グルネマンツが登場します。さらに重要なのは、敵クリングゾルの誘惑に縛られた女性クンドリーの存在です。クンドリーはクリングゾルの支配下でパルジファルを誘惑しようとしますが、彼の無垢と成長によって解放され、最終的には聖杯を守る使命に貢献するようになります。この流れは、私が宇沢先生の教えに出会い、既存の経済学の限界を乗り越え、社会的共通資本の可能性を再発見していく過程にどこか重なります。
先生は「社会的共通資本」という概念を提唱し、特に農業や自然環境、地域コミュニティの重要性を強調されていました。これらは、人間が人間らしく生きるための土台であり、経済活動がそれを損なってはならないという信念がありました。しかし当時の私はその深い理念を十分に理解できませんでした。ゼミが開かれる週末には先生や仲間たちと語らい、飲み明かす時間を楽しんでいましたが、先生の語る課題の本質を捉えきれず、表面的な理解にとどまっていました。その後、私は経済学の主流に抗う勇気もなく、ゲーム理論の研究に進みました。
ゲーム理論の中でも、私は制度設計を目的とするメカニズムデザインに惹かれました。それは合理性に基づいて制度を構築するもので、宇沢先生の影響を感じさせる分野でもありました。しかし、その研究を進めるうちに、その限界を痛感するようになりました。短期的な効率性や選好に基づくアプローチだけでは、気候変動や生態系の喪失といった長期的な問題に対応できないことが明らかだったのです。
この過程を経て、研究者として独り立ちした私は、宇沢先生の理念に真摯に向き合うことになりました。先生が提唱された社会的共通資本の概念は、単なる理論ではなく、現実の社会を変革する力を持つものでした。農業や自然環境、地域コミュニティといった基盤がいかに脆弱であるかを再認識し、それを現代の文脈に即して再解釈しようと試みました。
興味深いのは、既存の経済学にもクンドリーのように重要な役割を果たせる要素があることです。私が主戦場としてきたゲーム理論も、視点を変えれば社会的共通資本に貢献するピースになり得ます。クンドリーが最終的に聖杯の使命に加わるように、既存の経済学も再構築されることで持続可能性の追求に寄与できるのではないでしょうか。
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