ベンジャミン・クリッツァー「モヤモヤする正義 感情と理性の公共哲学」

橘 玲 作家
エンタメ 読書

時に暴走する「正義」を捉え直すために

『モヤモヤする正義』は500頁を超える大部の著作だが、平易かつ明晰な日本語で書かれているので、「社会正義をめぐってなぜこれほどもめるのか」を知りたい読者に格好の入門書になっている。

 30代の著者は在日アメリカ人で、京都で生まれ育ち、日本の大学・大学院で文学と哲学を学び、日本語で評論活動を行なっている。英語圏の哲学・倫理学と、日本のSNSの言論空間のいずれにも目配りが利き、在野の立場から刺激的な議論を展開できる稀有な存在だ。

ベンジャミン・クリッツァー『モヤモヤする正義 感情と理性の公共哲学』(晶文社)2860円(税込)

 私はリベラル化を「誰もが自分らしく生きられる社会を目指す」運動と定義し、いまや日本も世界もこの大きな潮流のなかにあると考えている。これはもちろん素晴らしいことだが、一人ひとりが「自分らしさ」を追求すれば、地域や宗教的な共同体は解体し、個人の利害が衝突して社会は複雑になっていくだろう。

 こうして、これまで「問題」として意識されなかったことが問題化して、「正義」についての新奇な言葉があふれるようになった。多くのひとが戸惑うのは、この傾向がとめどもなく過激化していることだ。

「キャンセル・カルチャー」は、「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)」という(左派=レフトが決めた)暗黙の規範に反すると見なされた言動をした者を、SNSなどで一斉に批判・攻撃し、その社会的な存在を抹消(キャンセル)しようとする文化的傾向をいう。個々の事例にはそれなりの正当性があるとしても、これが行き過ぎると言論・表現の自由と衝突するし、なによりも法治国家で、一部の(それも匿名の)集団による「私刑(リンチ)」が許されるのかという疑問が生じる。

「特権理論」は“白人”“男性”のようなマジョリティが特権を有し、黒人や女性などのマイノリティを抑圧する社会の差別的な構造を批判する。もちろん、あらゆる社会に多数派による少数派への差別・抑圧があるだろうが、問題のある言動を具体的に指摘されるならともかく、無自覚な「特権」を批判されてもどうすればよいかわからない。なかには、自分が理不尽な攻撃にさらされていると感じて反発する者もいるだろう。

「マイクロアグレッション」も同じで、マジョリティのなにげない言動に「軽視」「侮辱」「敵意」が含まれていることを告発する。マイノリティが日々の「極小の攻撃」に傷ついているという事実は重いが、これを乱用すると、「被害を受けた」と主張するだけで道徳的優位性を誇示し、相手の上に立てるようになる。こうして「被害の競争」が起きることは、近年のアメリカで「被害者意識の文化」として問題になっている。

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source : 文藝春秋 2025年2月号

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