波風を立てないように生きる
大手飲食チェーンに就職した井上さんは、気づけばいつも目上の男性に気に入られるように振る舞っていた。上司や先輩に必要以上に気を遣い、相手の意見を全面的に受け入れ、自分の意見を主張することはほぼなかった。
「当時は自己主張することは相手を否定することだと思い込み、罪悪感さえ感じていました。ただ一方で、自己主張しても気に入られる人のことを羨ましく思ってもいました。自分が本当は何を考えているのか、どうしたいのか、自分でもよくわかりませんでした」
その結果、都合の良い人間として扱われてしまうこともあった。だが怒りの感情を表に出すことが一番の恐怖だった井上さんは、ぐっと我慢し続けていた。
他人から怒られることに対しても、強い恐怖を感じていた。
「幼い頃から『怒られないように』とばかり考えて、先回りする癖がついていました。また、自分に関係なくても、機嫌が悪い人がいる空間にいると胸が苦しくなり、無意識に自分のせいだと思えてソワソワしてしまい、機嫌を直さなくてはと考えてしまうこともありました」
他人から怒られることを極端に怖がるあまり、自分が怒ることもできなくなってしまっていた。
理解し合えない父子
25歳になる年に井上さんは、転職を決意。そして実家に顔を出した時に、父親に話した。
すると、
「転職先では生え抜きや年下の人間に負けることになるんだ! 負け犬になって後悔するぞ!」
と言い、案の定、断固として反対。
「父は転職を、『出世競争から外れること』と思い込んでいました。今思うと、父のように『辛い、大変だ』と言いながら一つの会社で働き続けるのではなく、僕は父とは違い、『自らの力で望む人生を選択する力や強さがあるのだ』ということを証明したかったのかもしれません」
しかし父親は、「俺の言う通りにすればいい」「お前のために言っているんだ」と繰り返すばかり。
井上さんは、「父に話さなければ良かった」という後悔に押しつぶされそうになると同時に、すーっと冷めていくような感覚を覚えた。
「結局、父は変わらないんだな。もうこれ以上、何を言っても無駄だ」
そう思うと不思議なことに、井上さんの目から涙が流れ落ちていた。