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気がつけば人口は約2倍…「八戸」の戦後30年

 八戸が都市として発展したのは、戦後になってからだ。海沿いに臨海工業地帯が造成され、1964年には新産業都市に指定。以後、急速に工業都市化が進み、人口も急増。1950年には14万人ほどだった人口は、1980年には約24万人にまで増えている。

 それに伴って、玄関口の尻内駅(1971年から八戸駅)も少しずつターミナルとしての形を整えていった。

 ただ、本質的には工業都市としての八戸は鉄道というよりは港湾との結び付きが強く、工業地帯はもとより中心市街地からも離れた玄関口の開発はそれほど目覚ましいものではなかったようだ。

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 ありていにいえば、工業地が現れた海に向けて市街地が拡大し、内陸の尻内駅・八戸駅を中心市街地が飲み込むようなことはなかった。この点が、いまでも八戸駅から少し歩けば田園地帯という駅前風景に繋がっているのだろう。

 

 それでも、ひと昔前と比べればだいぶ市街化が進んでいるようだ。古い地図を見ると、八戸駅周辺はいま以上に田園地帯だ。

 駅の西側には操車場や貨物ヤードが広がって、その先はもう田畑が広がる農村地帯。中心市街地に近い東口も、目抜き通りから馬淵川を渡る尻内橋にかけての道沿いに町が形成されているくらいで、あとはすっかり一面の田畑。それからすれば、だいぶ発展したといっていいのかもしれない。

 中心市街地に近い東口の反対、西口のいまはどうなっているのだろうか。自由通路「うみねこロード」を反対に歩き、新幹線ホームと接している西口に出た。

 新幹線のホームはかつての貨物スペースや車両基地ゾーンを転用して設けられたもので、西口の駅前広場もかつての鉄道用地の一部だ。さすが、新幹線の駅らしくキレイに整えられている。

 だが、驚くべきは駅前広場から通り1本挟んだ向こう側。そこには、誰かの手が入っているとはおよそ思えない、まったくの荒れ地が広がっていた。一角では作物が育てられていたから、もともとは畑地か何かだったのだろう。

 

 再開発から取り残されたのかなんなのか。すぐ脇にはレンタカー屋があったりもして、目の前に立派な新幹線駅舎がある中で、駅前の一等地に残された荒れ地。こうしたところにも、中心市街地から遠く離れた玄関口の悲哀が残っているということか。