「十六文キック」「脳天唐竹割り」などを武器に、プロレスの黄金時代を築いたトップレスラー、ジャイアント馬場(ばば)(1938―1999)。その後継者としてプロレス界を支え続けた三沢光晴(みさわみつはる)氏(1962―2009)が、師匠から受け継いだ精神とは何か。
馬場さんは、プロレスというより人生の師匠でした。その大きな背中を見て、様々なことを教わりました。
1981年に高校を卒業して全日本プロレスに入門した当時は、まさに雲の上の存在でした。会社の社長でもあったので、練習に顔を出すことはほとんどありませんでしたが、先輩の代理で付け人をさせていただくなど、新人の頃から身近に接してきました。
入門当初、馬場さんには「リングを離れたら社会人としてちゃんとした人間であれ」とよく言われました。プロレスラーとしてどれだけ優れていても、喋ったら中身の無いバカでは駄目だと。プロレスだけやっていればいいという教えではなかった。挨拶や服装にも厳しく、「シャツはズボンの中に入れろ」「服は色を合わせろ」「いい靴を履け」なんてことまで言われました。馬場さん自身、若い頃のアメリカ遠征などで、日本人として外国の社会で認められるのに苦労されたからなんでしょうね。そういえば馬場さんの靴はグッチの特注品でした。

プロレスについてはあまり具体的なことを言われた記憶がありません。馬場さんは身長が2メートル9センチで文字通りの“ジャイアント”。それに対して私は小さく、デビュー時はジュニアヘビー級でしたから、おのずとスタイルは違ってくる。「練習をせんといかんよ」とは言われたし、受身の取り方やロープに走る際の動作など基本的な動きには厳しかったけど、やるべきことさえやっていれば、リングの上では比較的自由にさせてくれました。信頼されれば、こちらも意気に感じて「もっとやってやろう」と思う。おかげで、プロとしての自分のスタイルを作ることができました。
元来、口数の少ない人でしたが、入門3年目にメキシコ遠征の途中で日本に呼び戻されて、二代目タイガーマスクに指名されたときはさすがに驚きました。虎のマスクを渡されて、「お前、これ被ってやれ」と言われただけですから(笑)。
90年にマスクを脱いで、三沢光晴に戻ってからは、試合については「お前の好きなようにやれ」と任せてもらえるようになりました。当時は激しい試合が多くて体もボロボロでしたが、休まずに試合に出続ける馬場さんの背中を見ていたので頑張ることができた。プロレスは興行でもあるので、観戦に来たファンの期待を裏切れません。試合に出続ける大切さを無言のうちに教えてもらいました。
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source : 文藝春秋 2008年9月号

