専門の宇宙論のみならず、社会と科学の関係を論じた著作も多数ある物理学者の池内了(いけうちさとる)氏。その兄は、ドイツ文学者でエッセイストとしても人気の高い池内紀(おさむ)(1940―2019)だ。あえて兄とは違う理系の道を選んだ経緯を、弟がふりかえる。
私は兄が2人姉が2人の5人兄弟の末っ子で、すぐ上の兄の紀とは4つ違いである。小中学生の頃だと4歳の違いは大きく、いつも兄の後を追っかけては引き離され、口惜しくて泣きべそをかく毎日であった。涙に弱い兄は、しかるべく手を打って弟である私の顔を立てるのが常であったようだ。
例えば薪割りの競争を開始する。すると、みるみる薪の山に差がついていく。それを横目で見ていると知らぬ間に私の目に涙が溢れる。見かねた兄はわざわざ割りにくい節だらけの木を選んで時間をかける。やがて互角になった頃に「止めよう」と声をかけ、一本だけ私が多く割ったと軍配を上げてくれるのだ。私はうすうす兄の思いやりを感じながらも「勝った」と飛び上がるという次第であった。それに類似したことが今でも続いている。

もっとも、こんなこともあった。戦後10年くらいの間、わが家には水道がなく、お風呂の水を井戸で汲んでは大きなブリキの桶に入れて天秤棒でぶら下げ、2人で担いで運ぶ仕事が割り当てられた。井戸は取っ手を上下させて水を吸い上げるポンプ式である。兄は「今日は100回勝負だ」と私を挑発して、まず私が100回取っ手を上げ下げするように誘い込む。私は必死になって回数を数えながら水汲みに励む。ようやく100回になった頃にはもう桶には水が一杯溜まっており、兄は体よく重労働のポンプ押しを免れるのである。さらに、私が前棒、兄が後棒になって担いでいくうちに、背の高さに差があるものだから、桶はゆっくりと前棒の方にずれてくる。明らかに私に重量が多くかかるのだが、兄はそれに構わず、ずんずん押してくるので私は前へ進まざるを得ない。ようやく風呂場に到着したときには私はへとへとになって座り込み、兄は素知らぬ顔で悠々としているというわけだ。今にして思えば、あれは泣き虫の弟への兄の秘かなる復讐? であったのかもしれない。
18歳の長兄から6歳の私まで5人の子どもを残して親父が亡くなり、私たち兄弟は母親の下で団結せざるを得なかった。その象徴が、子どもたち一人一人に家の仕事を分担して割り当てることである。右に述べた薪割りも井戸の水汲みも、しかるべき年齢に達すると当たり前のように回ってきた。それらをみんながこなすことによってようやく一家が成り立っていたのだが、それによって子どもであっても一人前扱いしてくれたことも事実である。自立心が培われたと言えば大げさだろうか。子どもに家の仕事を任せ責任を持って遂行させる、それは子育てにとって大切なことであると思っている。
私が中学生になった頃から、ようやく兄の後を追っかけることを止めた。私は同級生と遊ぶ方が楽しくなったし、短歌や小説に凝った兄は「孤独」を好み、うるさい弟を拒否するようになったためである。そのうちに兄が数学と理科に弱いことがわかってきた。深夜、兄が母親と大学受験の相談をしていて、「入試科目に数学と理科がない大学が2校しかない、どうしよう」と言っているのを布団の中で聞いたのだ。私はそこで突然目覚めたのである。数学と理科に強ければ負け続けてきた兄に勝つことができる、ということに。
世間には兄が文系(理系)、弟が理系(文系)というように専攻が大きく異なる兄弟は多くいる。それは、きっと私と同じように、兄の弱点を知った、兄を追い越したい、兄に反発したい、そんな思いで弟があえて違った分野を選んだためではないだろうか。その意味では、弟は兄の影響を大いに受ける存在で、何がしかの負い目を感じている。とはいえ、本来理系人間も文系人間もいないはずで、ちょっとした偶然で道を選ぶに過ぎないとも言えよう。分野の適否は事前に決めるものではなく、結果で判断するしかないからだ。もっとも、この歳になって、文章を書くのが好きな私が、果たして理系に進んだのは正解であったかどうか考えることもあるが、もはや引き返すことはできない。
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source : 文藝春秋 2009年8月号

