NHKスペシャル「“駅の子”の闘い〜語り始めた戦争孤児」(8月12日放送)で、戦後しばらくの間、上野駅の地下道に住みついていた浮浪児たちのその後を追いかけた番組を見た。番組の中でその子たちが「駅の子」と呼ばれていたのを見て、いくら何でも浮浪児をさして「駅の子」はないだろうと著しい違和感を持った。あれを「駅の子」と表現するのは、ある時代の日本語を歪めて伝えるものだ。
この原稿を書くにあたって、本庄豊『戦争孤児―「駅の子」たちの思い』(新日本出版社)を読んだ。なるほど同書によると、駅周辺に住みついた戦災孤児を指して、京都では「駅の子」、大阪の梅田のあたりでは「駅前小僧」と呼んでいたという。しかし私の知るかぎり、東京はじめ関東地方では「浮浪児」が当時一般に使われてきた言葉であって、その後も一般に使われている。実際問題として先のNHK番組で映される新聞見出し等の歴史的映像においても、「浮浪児」の言葉が何度も用いられているから、ここでは「駅の子」のような妙な言葉は使わないことにする。NHKはいつのまにか日本語の浄化運動を開始して、浮浪児、浮浪者のような“汚い日本語”の追放運動でもはじめたのかと思った。
私と同世代の人々にとって、浮浪児の世界というと、すぐに思い出すのは、菊田一夫の傑作ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」(1947〜50年)ではないだろうか。戦争から復員してきた青年加賀見修平が行方不明になった弟修吉を見つけようとして作った、浮浪児たちのための更生施設での共同生活から生まれる波乱万丈の物語は、毎日聞いている人約25%、聞いたことがある人約90%(1950年)のお化け番組だった。
7歳から10歳にかけて、私はこの番組を毎日熱心に聞いていた。少年隆太のところにときどきやってくる「おじさん」と呼ばれる謎の人物が特に印象に残っている。実はドロボーらしく、やってくるときは天井板を外して部屋に忍び入ってくる。1948年に公開された映画「鐘の鳴る丘 第一篇 隆太の巻」では、この人を笠智衆が演じた。なぜか隆太に特別の心情をもってやさしく接し、いつもいろんなお土産をもってきた。名前を立花と名乗っていたから私は強いシンパシーを感じていた。
作者の菊田一夫は、幼少期に実の親に捨てられ、異国の地(台湾)で苦労に苦労を重ねて何とか自力で育ってきた大変な苦労人なのだが、それが全部ドラマの作中人物の苦労に反映されている。
「鐘の鳴る丘」がなぜあれほど当ったかというと、番組の背景に、進駐軍のバックアップがあった。日本を浮浪児が一杯のすさんだ状況から早く脱却させたかった進駐軍は、アメリカのフラナガン神父が作った「少年の町」をモデルに「鐘の鳴る丘」を作り、日本を復興させるよすがにしたいと考えていたようだ。しかしそれは次第に進駐軍の思惑を超えて、ドラマ作りの天才菊田一夫による波乱万丈の物語へと姿を変えていった。
私は戦災孤児ではないが、戦後の引揚げで、戦争孤児をたくさん目にしたし、一時的に自分自身親の眼からはぐれて孤児になりかけた恐怖の体験も持っている(なぜか母親の態度に強い不満を持って、母親の目の届かぬ所にわざとどんどん離れていき迷い子になりかけた)。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
今だけ年額プラン50%OFF!
月額プラン
初回登録は初月300円・1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
オススメ! 期間限定
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
450円/月
定価10,800円のところ、
2025/1/6㊊正午まで初年度5,400円
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事が読み放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年7,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 塩野七生・藤原正彦…「名物連載」も一気に読める
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2018年10月号