熊本地震のちょっと前に、新宿のゴールデン街で不思議な失火事件が起き、四棟三百平方メートルばかりを焼いた。火事との結び付きは不明ながら、住所不定の浮浪者が建造物侵入容疑で逮捕されるという事件も起きた。その日見るともなしにテレビを見ていたら、ゴールデン街の特異さが説明される中で、客に文化人が多く、私がバーを開いていたこともあったと説明されていた。それは事実である。一九七一年前後、私は「ガルガンチュア立花」というバーをあそこで開いていた。それは『田中角栄研究』を書くちょっと前の頃で、私は駆けだしのルポライターとして、文藝春秋、講談社などの雑誌に記事を書く一方、それだけでは食えないので、あそこで小さなバー(客席八席)を経営していた。
大学時代の友人四、五人が金を出しあって面白半分で小さなバーの経営権を買ったのだ。私はあまり金がなかったので、カウンターの中に入って客の相手をする(酒を作り、料理も作った)役まわりだった。客はほとんどがマスコミ、出版界の知り合いだったが、それなりに儲かった。店は今でもゴールデン街の一角にちゃんとある。ガルガンチュアの名は、ラブレーが書いた伝説的に有名な暴飲暴食の代名詞のような怪物(生まれたときから「飲みてエ、飲みてエ」とわめきちらしていたという)の名前からとった。
ガルガンチュアは、テレームの修道院を作り、そこで修道僧たちに課した唯一のルールが、“FAY CE QUE VOUDRAS”(フェスク・ヴドラ=汝の欲するところをなせ)であったという。この標語は、フランスではフランス・ユマニスムの自由の精神を体現した言葉として広く知られている。要するに「やりたいことをやれ」ということだ。それは同時に「やりたくないことはやるな」ということでもある。これぞフランス・ユマニスムの中心命題だった。そこでこの標語を大きな板に彫って、店の奥にドンとかかげた。この標語通り、店の中には絶対自由な言語空間があって、客たちはみな一晩中ムチャクチャな異論極論の激論をたたかわせあった。
この標語は中世ラテン語だから、ふつうは誰も読めない。ところが客の中でこれをスラスラと読んで、「オッ、ラブレーじゃねえか」といった男がいた。講談社で後に週刊現代の編集長になり、「日刊ゲンダイ」の創始者にもなった伝説的編集者、川鍋孝文だ。彼はガルガンチュワ物語の訳者渡辺一夫の一番弟子を自称(真偽不明)していた。もう一人は当時フランス大使館の書記官とル・モンド紙の東京特派員をかねていたブリス・ペドロレッティだ(現ル・モンド紙北京特派員)。フランスのインテリにとって“FAY CE QUE VOUDRAS”は常識中の常識に属する言葉だった。彼は実は著名な映像作家でもあったから、後に“FAY CE QUE VOUDRAS”をそのままタイトルにしたビデオ映画を作り、この標語は戦後の焼野原から生まれたゴールデン街の何物にも縛られない自由の精神そのものを表現するものでもあるとした。映画では野坂昭如が登場して、ゴールデン街の歴史と赤線・青線地帯の解説を語った。私もガルガンチュアの店主として登場し、この地域の特殊性(オカマバー地帯でありながら昭和戦後文化の中心的担い手たちの巣窟)を語っている。
ある時期から、ゴールデン街は外国人に最もよく知られた地域になり、外国人観光客に東京で行ってみたいところのアンケート調査をすると、ゴールデン街がトップにくるという。
ペドロレッティが作ったなんとも怪しげな雰囲気をただよわせたゴールデン街紹介ビデオは、日本人がほとんど知らないうちに、外国人の手から手へと次々にわたり、ゴールデン街という不思議空間の名をどんどん広めたらしい。
よくよく考えてみると、“FAY CE QUE VOUDRAS”のガルガンチュア精神は、私の人生において私の生き方を導くような役割を果たしてきた。だから、最近朝日新聞の夕刊で「人生の贈りもの わたしの半生 ジャーナリスト・評論家 立花隆」という連続インタビュー(全十五回)が載ったが、その四回目の「欲するところを為せ」と、最終回の「やりたいこと やれる社会であれ」の両方で、この標語を登場させている。
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source : 文藝春秋 2016年6月号