田河水泡 のらくろは俺のこと

髙見澤 邦郎 長男・都市計画家・東京都立大学名誉教授
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『のらくろ二等卒』が人気を博し、昭和初期を代表する漫画家となった田河水泡(1899〜1989)。息子の髙見澤邦郎氏が〈のらくろ〉執筆時から晩年までの父の姿を語った。

 天涯孤独の“のら犬黒吉”が猛犬連隊に入って大笑いの失敗を繰り返し、時にちょっとの涙も誘いながら出世してゆく物語が、漫画、〈のらくろ〉である。昭和6(1931)年から雑誌『少年倶楽部』で連載が始まり、次々に単行本にもなった。全国の子どもたちから圧倒的な人気を得たが、11年目の昭和16年、新聞雑誌用紙の戦時統制で執筆が止められてしまう。ブルジョア商業主義にへつらい、軍人を笑いものにして国策を侮辱している、紙の支給はできぬ、と。太平洋戦争の始まる年であった。

『のらくろ』の生みの親、田河水泡 ©文藝春秋

 作者の田河水泡は仕事が減って暇を持て余す。そんな時間の中で、父祖の地と伝え聞いていた千曲川のほとり、臼田町(平成の半ば佐久市に合併)を訪れて、系図を調べたりお寺をたずねまわったりした。そしてこれぞと探し当てた髙見澤という農家に行き、そこのご当主に「こんにちは。江戸時代の初め寛永の頃、お宅様の次男さんが江戸に出てますよね。私はその人の七代あとの者です。こちらがきっとご本家で……」、と。すると向こうさんも「初めまして。それはそれはよくいらっしゃった。では向後よろしく」となり、300年近くを隔てた親戚付き合いが改めて始まった。ちょっと漫画のストーリーのようだが、筆者の代にも付き合いは引き継がれている。因みに田河水泡というペンネームは本名の髙見澤を、た・か・みず・あわ、と、もじったのだが、人はそのように読んではくれなかった、とのこと。

 先祖の話を続けると、江戸に出た農家の次男坊はお武家に中間(ちゅうげん、ま、雑用係の下男)の職を得る。その後代々、よほど働きが良かったのか幕末には小禄とはいえ「旗本」なる家の用人格へと出世し、主の次男坊を娘婿に迎えるまでになった。そしてその長男(江戸に出ての六代目)や次男(田河の父親となる人)も誕生したが、残念ながらここで御一新、すべてはゼロからの再出発に。

 田河の母親は早くに亡くなり2歳のときに、深川に住む大家さん暮らしの伯母夫婦に引き取られる。店子の世話のかたわら南画や寄席が趣味だった伯父の影響もあって、絵描きになりたい気持ちに。はたちをこえたころ兵役から戻り、早稲田の戸塚町にあった日本美術学校の図案科に入学して下町を離れた。妻となる潤子(本名は小林冨士子)と出会った中野をはじめ、田端の文士村などにも住み、後に荻窪に居を構えた。潤子は慕っていた兄のすすめもあって田河と結ばれたのだが、この兄は後に評論家となる小林秀雄。当時は田河も小林も、絵描きや文士を夢見るまだ無名の青年たちだった。

 昭和30年代だが、小林は「漫画」という一文を『文藝春秋』に寄せている。「……或る日、彼は私に、真面目な顔をして、こう述懐した。『のらくろというのは、実は、兄貴、ありゃ、みんな俺の事を書いたものだ』私は、一種の感動を受けて、目が覚める想いがした……」と。

 さて話は飛ぶ。東京オリンピック(もちろん昭和の)も催され戦後復興という言葉も遠くなるころ、講談社から〈のらくろ〉の単行本10冊が昔のままの布装箱入りで復刻・刊行された。とりわけ喜んで買ってくれたのは、大人になった〈戦前の子どもたち〉で、「昔は買ってもらえなかったから……」と。今でも中高年の方が「子どものころに読みましたよ」と言ってくれるが、親が買ったこの戦後の復刻版を読んだのだ。

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source : 文藝春秋 2024年8月号

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