フォークナー『響きと怒り』上・下

第10回

與那覇 潤 評論家
ニュース オピニオン 読書

社会を引き裂く怒りを癒すのは

 来月に迫る米国の大統領選挙で、ハリス民主党陣営のキーフレーズが「喜び」だと聞き、胸騒ぎがした。言うまでもなく、共和党のトランプの始終「怒り」にまみれた姿と対にして、ポジティブな未来志向をアピールする狙いである。

 しかし、それは2016年にも試みて、いちど敗れた戦術だ。社会の奥底から湧き上がる怒りに目を凝らさず、レッテル貼りでやり過ごした結果のしっぺ返しを、リベラルはまた被(こうむ)りはしないだろうか。

 フォークナーの代表作『響きと怒り』は、1929年刊。当初はそもそも理解不能で、まるで読まれなかった怪作が、いまは現代文学の古典と見なされる。

 第一部の語り手であるベンジーは、一人称目線の主人公であるのに、精神遅滞で言葉を発することができない。記憶が飛び飛びに脳内に甦るため、時系列もむちゃくちゃだ。しかし混沌を極める文体にねばり強くつきあうと、背後には切ないほど純朴な喪失感が浮かび上がる。

 地元の名士だったが、南北戦争の敗戦を経て没落しゆくミシシッピー州の一家に、性的な奔放さから鼻つまみ者になる娘キャディがいた。しかし末弟のベンジーにとっては、自分を差別しない唯一の肉親で、彼女が家を出た後も、響きが同じ「キャディ」という発声を聞こうとして、ゴルフ場の周囲を徘徊し続ける。

 そもそも長男をハーバードに進学させるために、一家は土地をゴルフ場に売ったのだが、妹キャディとの関係に悩んだ彼は自殺する(第二部)。兄と異なり地元で燻(くすぶ)らされて育った次男ジェイソンは、憎む母や姉の資金を着服し、黒人の使用人にも差別の視線を向ける(第三部)。

 自身のエゴイズムを棚に上げ、ニューヨークの相場師はもっと汚く儲けていると罵るジェイソンの「怒り」は、まさにトランプ現象を支える力の原型だ。世界統治におけるアメリカの凋落は、かつては南部らしいと形容された荒涼と頽廃を、すっかり全米規模にしてしまった。

有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。

記事もオンライン番組もすべて見放題
初月300円で今すぐ新規登録!

初回登録は初月300円

月額プラン

1ヶ月更新

1,200円/月

初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。

年額プラン

10,800円一括払い・1年更新

900円/月

1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き

電子版+雑誌プラン

12,000円一括払い・1年更新

1,000円/月

※1年分一括のお支払いとなります
※トートバッグ付き
雑誌プランについて詳しく見る

有料会員になると…

日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事、全オンライン番組が見放題!

  • 最新記事が発売前に読める
  • 毎月10本配信のオンライン番組が視聴可能
  • 編集長による記事解説ニュースレターを配信
  • 過去10年6,000本以上の記事アーカイブが読み放題
  • 電子版オリジナル記事が読める
有料会員についてもっと詳しく見る

source : 文藝春秋 2024年11月号

genre : ニュース オピニオン 読書