社会を引き裂く怒りを癒すのは
来月に迫る米国の大統領選挙で、ハリス民主党陣営のキーフレーズが「喜び」だと聞き、胸騒ぎがした。言うまでもなく、共和党のトランプの始終「怒り」にまみれた姿と対にして、ポジティブな未来志向をアピールする狙いである。
しかし、それは2016年にも試みて、いちど敗れた戦術だ。社会の奥底から湧き上がる怒りに目を凝らさず、レッテル貼りでやり過ごした結果のしっぺ返しを、リベラルはまた被(こうむ)りはしないだろうか。
フォークナーの代表作『響きと怒り』は、1929年刊。当初はそもそも理解不能で、まるで読まれなかった怪作が、いまは現代文学の古典と見なされる。
第一部の語り手であるベンジーは、一人称目線の主人公であるのに、精神遅滞で言葉を発することができない。記憶が飛び飛びに脳内に甦るため、時系列もむちゃくちゃだ。しかし混沌を極める文体にねばり強くつきあうと、背後には切ないほど純朴な喪失感が浮かび上がる。
地元の名士だったが、南北戦争の敗戦を経て没落しゆくミシシッピー州の一家に、性的な奔放さから鼻つまみ者になる娘キャディがいた。しかし末弟のベンジーにとっては、自分を差別しない唯一の肉親で、彼女が家を出た後も、響きが同じ「キャディ」という発声を聞こうとして、ゴルフ場の周囲を徘徊し続ける。
そもそも長男をハーバードに進学させるために、一家は土地をゴルフ場に売ったのだが、妹キャディとの関係に悩んだ彼は自殺する(第二部)。兄と異なり地元で燻(くすぶ)らされて育った次男ジェイソンは、憎む母や姉の資金を着服し、黒人の使用人にも差別の視線を向ける(第三部)。
自身のエゴイズムを棚に上げ、ニューヨークの相場師はもっと汚く儲けていると罵るジェイソンの「怒り」は、まさにトランプ現象を支える力の原型だ。世界統治におけるアメリカの凋落は、かつては南部らしいと形容された荒涼と頽廃を、すっかり全米規模にしてしまった。
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source : 文藝春秋 2024年11月号