ノーベル賞作家の大江健三郎(1935〜2023)は昭和33(1958)年に「飼育」で芥川賞を受賞し、長く戦後文学を牽引してきた。平成24(2012)年に『かわいそうだね?』で大江健三郎賞を受賞した綿矢りさ氏がその思い出を綴る。
大江健三郎さんからいただいた古典基礎語辞典の冒頭の余白には、大江さんが「アハレとカナシ」に関する辞典の引用を直筆で書いて下さった。大江さんは辞典を“読む”ために下さったのではないか、と感じている。日本の古来の言葉を継承していきたいという深い思いが込められた辞典だったのではないだろうか。
亡くなられてからは日本のみならず、世界中で哀悼の意が表明されたが、私にとってはちょうどそのとき訪れていた中国での大江さんの読者や研究者の悲しみが印象的だった。追悼イベントも行われていた。
平成24年に仕事で作家団としてフランスへ行ったとき、大江さんとも一緒だった。そのとき強く印象に残っているのは、大江さんが何かを失くされても、最後の最後で奇跡的に出てくる瞬間だ。フランスの狭い飲食店でぎゅう詰めになってみんなで食事したあと、大江さんのコートが見当たらなくなり、みんなで探したがどうしても見つからない。店側が見つかったら必ず連絡しますので、ということになり、解散となった直後に、ひょっこりコートが出てきた。あんなに探しても見つからなかったのに、不思議だなあ! と、みんなで言い合った。またフランスから帰国となったときに、大江さんのパスポートがなかなか出てこなかった。どうなるんだろう……と見ていたら、またぎりぎりのときに奇跡的に出てきた。何かが見つかる瞬間、山の緑に塞がれていた道がぽっかり見つかるような不思議さがあった。と、こうして書いてきて、迷う。このようなことを、書いても良いのだろうか? 今回依頼された内容は大江さんとのフランスの思い出を主に、とのことで、この他にも、思い出はあるけど、大江さんの書かれた「取り替え子(チェンジリング)」の内容が頭をよぎり、果たして故人とのエピソードをどのくらい公開していいのか、迷う。「取り替え子」は主人公古義人(こぎと)の妻の兄である映画監督の吾良(ごろう)が、ビルの上から墜落死するところから物語が始まる。このときのマスコミの特殊な様子に古義人は“権威が揺らいだにせの王への、無邪気に偽装された侮蔑”だと感じる。誰を王と感じるかはその人次第だが、ビッグネームの人間に何か起きて、その業界の王座を降りなければならなくなったとき、なぜか一般市民は高揚に包まれて、束の間お祭り騒ぎになる。「えっ、なんでそうなったの?」と驚きながらも、少し嬉しい。新しい王への、未来への期待とかではなく、退屈が紛れたような、胸がすくような、ただの高揚と暇つぶしだ。一般市民と言うと広すぎるなら、少なくとも私はそうだ。その高揚を「侮蔑の感情は、マスコミの世界で王のひとりに祭り上げられていた吾良が引っくり返り、もう金輪際、王に戻って反撃することはないという、かれらの確信から来ていた」と表現されたのなら、まさしくそれだと思う。大江さんはそのような人間の卑しさに、非常に敏感だ。
また本書は吾良の死後、遺族が質問攻撃にどれほど迷惑をこうむり、傷つけられたかも書いているので、軽蔑だろうが讃えようが、死人に口なしの安心感に浸るのはアカンなと自戒する。大江さんの「政治的沈默、そして死」という題の文章では“死者は名譽回復できない”という言葉が出てくるが、それも重く響く。また古義人がしつこい個人攻撃に頭を悩ませてる描写を読んでいると、数え切れないほどの賞賛や栄誉を受けただろう人でも、世間にこれだけ意地悪されていると感じていたのか、という感想も抱いた。
大江さんの膨大な量の生原稿が東京大学の「大江健三郎文庫」に保管され、データ化されていて、今回見せてもらった。初めの手書き原稿からずいぶん直して、削ったり付け足したりしている。削ったゾーンには青い細かな斜線を入れて、付け足しの文章は余白に分かりやすく書かれ、丁寧な手書きのせいか温かみを感じる一枚一枚の原稿だ。
「大江健三郎文庫」の職員の方によると、この直しの集中力は各作品の最初から最後までずっと続いているとのことで、推敲に非常な労力を注いでいることが分かる。直し方も説明的な部分を削っている箇所が多いらしくて、大江さんの現実生活に実際に起こったことが書いてあるのか、はたまた寓話的なフィクションとして書かれているのかと想像の広がる、あの魔法の香りのする文章は、このような推敲の妙によって出来上がるのかもしれない。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
今だけ年額プラン50%OFF!
月額プラン
初回登録は初月300円・1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
オススメ! 期間限定
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
450円/月
定価10,800円のところ、
2025/1/6㊊正午まで初年度5,400円
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事、全オンライン番組が見放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 毎月10本配信のオンライン番組が視聴可能
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年6,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2025年1月号