昭和52(1977)年、『桃尻娘』で作家デビュー。その後、古典の現代語訳や評論など八面六臂の活躍をした橋本治(1948〜2019)。妹である柴岡美恵子氏と加藤久美子氏の二人が、兄の姿を語る。
柴岡美恵子と申します。私たち3人は2歳ずつ離れていて、兄の治、美恵子、久美子と続きます。久美子より私のほうが兄と歳が近かったので、よく一緒に遊んでいました。近所の子を集めて少年探偵団ごっこをするときは兄がリーダー役で、私たちは指示どおり動くだけなんですが(笑)。拳骨を口に押し込むこと、三点倒立、回転レシーブもまねさせられました。子どもの頃から何でも知っていて、近所に貼ってある宣伝ポスターを見て「あのマツタケ映画ってなに?」と聞くと、「ショウチクと読むんだ」と。記憶力もよくて本も一度読めば覚えていました。
両親はアイスクリームの卸し業と牛乳配達店を営み、そのときどきで洋菓子や和菓子も扱っていました。小学生の頃かな、家族でご飯を食べていても来客があると、兄が店に出て接客していました。和菓子をトングで経木に乗せて、器用に包んでいましたよ。
小林秀雄賞の受賞パーティのときに「どうして自分は『ありがとうございます』が上手なのかなと考えてみると、家が商売をやっていたから言い慣れているんだ」と言っていましたが、自然に身についたのでしょう。大人になっても威張らず腰が低かったのは、商売人の心得があったからかもしれません。
兄が「ちょっと」有名になったのは、東京大学在学中に描いた絵が駒場祭のポスターに採用されてからですね。昭和43(1968)年の大学紛争の真っただ中、「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」というコピーが入った、あのポスターです。自室で描いていた兄は「おい、できたぞ!」と襖を開けて、完成した作品を見せてくれました。ポスターが仕上がると「学校でこれを売ってこい」なんて言われて。私の高校の同級生が買ってくれたんじゃなかったかな。その後は、イラストレーターとして活動していました。
依頼は断らずに受けていましたね。イラストの仕事は自分の作品としてではなく、相手の要望を汲み取って描くので画風も全く違う。同じ人が描いたとは思えませんでした。
兄は、本当は東京藝術大学に行きたかったんです。それを父に相談すると、「お前は絵で食っていける自信があるのか」と言われたみたい。それで東大に入ってポスターを描いてから講談社フェーマススクールズの通信講座を受講していました。のちにフェーマススクールズの広告にも受講者として載ったんですよ。
有料会員になると、この記事の続きをお読みいただけます。
記事もオンライン番組もすべて見放題
今だけ年額プラン50%OFF!
月額プラン
初回登録は初月300円・1ヶ月更新
1,200円/月
初回登録は初月300円
※2カ月目以降は通常価格で自動更新となります。
オススメ! 期間限定
年額プラン
10,800円一括払い・1年更新
450円/月
定価10,800円のところ、
2025/1/6㊊正午まで初年度5,400円
1年分一括のお支払いとなります。
※トートバッグ付き
有料会員になると…
日本を代表する各界の著名人がホンネを語る
創刊100年の雑誌「文藝春秋」の全記事、全オンライン番組が見放題!
- 最新記事が発売前に読める
- 毎月10本配信のオンライン番組が視聴可能
- 編集長による記事解説ニュースレターを配信
- 過去10年6,000本以上の記事アーカイブが読み放題
- 電子版オリジナル記事が読める
source : 文藝春秋 2025年1月号