詩人・作家の森崎和江(1927〜2022)は昭和33(1958)年、谷川雁とともに雑誌『サークル村』を創刊し、社会の底辺で働く労働者とともに思想を紡ぎ始めた。その後、女性の炭鉱労働者からの聞き書きをまとめた『まっくら』(昭和36年)、19世紀後半にアジアで売春に従事していた日本人女性を描いた『からゆきさん』(昭和51年)などを発表する。晩年の森崎と濃密な対話を交わした政治学者・中島岳志氏がその思想の“根拠地”を語る。
私が学生時代を送った1990年代後半は、日本でもポストコロニアリズムの思想が流行り始めた頃でした。それに影響されて、フーコーやサイードなど舶来の思想を学び始めた時、ふと、「こういう思想は森崎和江がすでに自分の言葉で紡いでいるぞ」と気がつきました。
森崎さんと初めてお目にかかり、長時間に亘る対話(後に『日本断層論』として出版)をしたのは、2010年のこと。当時は民主党政権下で、リーマン・ショック後の派遣労働者の窮状など貧困や格差の問題に注目が集まり、秋葉原事件などによって、社会のひずみがアイデンティティの危機をもたらしていることも明らかになっていました。若者も反貧困格差を掲げて全共闘以来となる政治への参加を始めていた。私も北海道でホームレスの人々が販売する雑誌『ビッグイシュー』の支援に関わったり、反貧困ネットワークの一端にいました。自分が直面している問題の背景や運動のあるべき進め方を考えるうちに、昭和30年代に筑豊の炭鉱で森崎さんが行っていた『サークル村』の活動に学ぶべきではないか、という思いに至っていました。
実際にお会いした森崎さんは、とってもチャーミングで、当時83歳だったとは思えないほど、お元気でした。対話は2泊3日、ご自宅から近い、福岡県宗像(むなかた)市の国民宿舎で泊りがけで行いました。このプランは「人生の終わりに全部話したい」という森崎さんからの提案でした。3日間、森崎さんの人生と思想の変遷をじっくり伺い、『サークル村』の拠点があった福岡県中間(なかま)市にも行きました。その際に興味深かったのは、森崎さんが方向音痴だったこと。「ここらへんかな」と喋りつつ右往左往して目的地にたどり着く。でも、着くやいなや、ボタ山や託児所があそこにあったとか、竹内好が訪ねてきた記憶などがポンポン出てくる。その時の森崎さんは、はしゃいでいる子供そのもの、ぴょんぴょんしている感じでした。
そんな朗らかな森崎さんも、ご自身の思想の核心に触れる話題になると眼光が鋭くなりました。戦前、日本が統治していた朝鮮半島で生まれ育ち、女学校時代には植民地支配に強い疑問を抱いた。敗戦後は「日本」と書けなくなり、「私」という言葉を使えなくなるほど罪の意識に苛まれた。日本人が支配の記憶をやり過ごすなかで森崎さんは原罪意識を持つことにまで達する繊細な感性を持っていた。戦後、引き揚げてきた日本では弟さんの自死にも直面します。彼は「女はいいね、何もなくとも産むことを手がかりに生きられる。男は汚れているよ」という言葉を遺した。この言葉は森崎さんの思想の原点で響き続けていました。そのように長い時間をかけて自分の中に様々に抱え込んでいたものを“文学”で表現していったのです。
谷川雁との訣別の過程も知ることができました。常に暮らしとともにある“地べた”感覚が森崎さんの核にあるのに対し、谷川は筑豊での活動を中央へのアピールに使う。森崎さん曰く「すぐ東京へ行っちゃうのよね」。驚いたのは、日本を揺るがせた60年安保を森崎さんがほとんど知らなかったことです。当時、彼女は託児所を作ろうとしていた。それこそ谷川を代表とする知識人とは一線を画す、“土性ッ骨”の証ではないでしょうか。だから、ルポで描かれることに反発し、ドスを持って殴り込んできた炭鉱夫に「あ、よく来てくれた!」と一升瓶を掲げて語り合うことができたし、それまで問題にされづらかった女性労働者への差別を敏感に察知し、その声に耳を傾けることができた。
森崎さんは一貫して教条主義的な論理には捕らわれずに生きた方でした。マジメな活動家なら目くじら立てるような、給料をもらってすぐにパチンコですってしまうとか、酔っ払って刃物を振り回す人に対して、「こうあるべき」なんて態度は取らない。日々を生き抜いていかなければならない苛酷な現実から出発し、朝鮮半島で支配者の側にいた自分や炭鉱労働者の中で書くことに対して、常に鋭い批判の刃を自分に向けていました。森崎さんの生き方と思想には、今も触発され続けています。
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