波乱と奇跡に満ちた創立記念行事

越智 光夫 広島大学学長
ライフ 教育 歴史

 2024年10月30日の朝9時、携帯に2分おきに3回の着信。発信者は広島大学創立75+75周年記念イベントの基調講演者、エマニュエル・トッド氏の担当者の西泰志氏だった。嫌な予感がして折り返すと「急病で来日できない」との知らせで、心臓が凍りついた。3日後の11月2日にはホームカミングデーが控え、トッド氏の講演はその目玉だった。代役候補を探そうとしたが、頭の中は真っ白。まるで脳内の検索エンジンが固まったようだった。

 歴史人口学者、家族人類学者として世界の未来を予見する鋭い洞察で知られるトッド氏。彼を招くまでの道のりも決して平坦ではなかった。彼は「私は日本が米国の保護領とも言える立場から離れ、核武装をすべきと主張しているけれど、それでもいいのか?」とパリの日本大使館経由の私からの手紙に返事。私は、核武装には反対であるが、ただ大学においては自由で多様な議論も必要である旨、そして今回は核武装の話でなく、家族論の視点で世界の未来を語っていただきたい旨を伝えた。最終的に、「末娘を連れて広島に行く」との快諾を得たときの安堵と歓びは手紙を書いてから2年経った今でも記憶に鮮明だ。しかし、まさかの直前キャンセル。人生とは、こうも予測がつかないものか。

 代役には、インテリジェンスの第一人者で作家の佐藤優氏の名前が浮上。「3日前に依頼なんて無理だろう」と半ば諦めていたが、なんとスケジュールを調整して快諾してくださった。「えっ、本当に?」と声が出るほどの感謝と驚き。天が味方してくれたかのようだ。

 だが、試練は続く。イベント前日から広島は線状降水帯の発生に見舞われ、大雨が交通網を寸断。山陽本線は止まり、新幹線は遅れ、高速道路も一部通行止め。まるで試されているかのようだった。それでも、奇跡は起きた。岸田文雄前総理はSPに守られながら無事到着し、いつもの柔らかな表情での心温まる祝辞。伊藤学司文科省高等教育局長も山陽本線運休前の最後の列車に飛び乗り、ギリギリ到着。佐藤氏はトッド氏の新著『西洋の敗北』を携え、巧みに引用しつつ講演し、聴衆から大好評を博して、その YouTube での再生回数は今でも増加の一途をたどっている。京都大学前総長の山極壽一氏は乱れた交通状況の中、新幹線を乗り継ぎ、広島大学同窓生のアンガールズの田中卓志氏は空港から下道を走りなんとか会場入りし、山極氏の含蓄に富む講演と田中氏の爆笑トークショー。お陰で会は盛り上った。あの天候の中、全員が揃ったこと自体が奇跡だった。

 午後には晴れ渡った空を見上げ、「晴れ男」である私はあの雨を連れてきたのは誰だろうと苦笑いしたが、後に前総理の山本高義秘書官から「前総理も晴れ男です」と聞かされ、雨男の正体に思いを巡らせながら、「実は、私か?」と再び笑みがこぼれた。

越智光夫氏 Ⓒ広島大学

 2日間で約1万人を迎えたホームカミングデー。前年の涙を誘った吉永小百合氏の原爆詩の朗読、街を彩ったラッピング電車・バス、延べ12万人以上が参加した2年間にわたる計117の75+75周年記念事業は愛校心を育み、本学の誇りと平和への思いを形にし地元地域への感謝を表わす場となった。

 トッド氏の語るように欧米主導の資本主義と民主主義の枠組みだけではもう輝く未来は創れないかもしれない。混迷を深める世界。しかし、土砂降りの中であろうが「希望の灯」を絶やさないという誓いのもと、私たちは一歩一歩を踏み出していく。広島という地から、そして広島大学という場から、小さな「林檎の木」を植え続ける。それこそが私たちの使命であり、未来へのメッセージなのだから。

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source : 文藝春秋 2025年3月号

genre : ライフ 教育 歴史