第4クールに入ると、郷の視点は、人間郷秀樹ではなく、ウルトラマンのものとなってくる。「宇宙戦士 その名はMAT」でも、ミステラー星人Aに、自分は“ウルトラマン”だと言っている。本編では台詞が変更となったが、東亜スタジアムで変身が出来なかった後、初代ウルトラマンが郷に語りかける時、完成作品では“郷秀樹”と呼ぶが、脚本では“ウルトラマン”となっている。これはウルトラマンがウルトラマンに語りかけるという、ちょっとわかりづらい図式となっているがゆえの変更だろう。だが上原の意図としては、郷秀樹は完全にウルトラマンなのだ。
上原は『帰ってきたウルトラマン』を書くに当たって、“人間の成長物語がコンセプトでホンを立ち上げて、主人公が成長していく物語という観点で書いていった”と証言している。しかし上原の中でその物語は、坂田とアキの死をもって終止符を打ったのであろう。
もっとも次郎にとって郷秀樹は、たとえウルトラマンになってもあくまでも郷秀樹なのだ。だからこそウルトラマンに変身した後も、郷の名を呼ぶし、エンディング・ナレーションは、人間郷秀樹とウルトラマンを区別している。
上原作品らしい力強さが感じられない理由
それにしても「ウルトラ5つの誓い」には、最終回としての体裁は整っているものの、上原作品らしい力強さが感じられない。その原因として上原は、以下のように証言している。
上原 「怪獣使いと少年」で、草鞋履かされて旅に出たんだけど(干されたという意味)、橋本さんから「メインライターの責任上、最終回だけは書け」って言われて書いたんだけどね、あれが局内で問題になって、色々ゴチャゴチャあって、その頃から、僕の中でウルトラマンはもう……というのはあったね。
橋本さんは、この後も『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』ってずっとやっていくでしょう。ところが僕の中には、草鞋を履かされたというのがトラウマのようになっているから、『ウルトラマンA』になってくるとよくわからなかった。だから『ウルトラマンA』で僕の作品は、ひじょうに曖昧模糊としたものばかりですよ。
具体的に言うと、『ウルトラマンA』は、市川森一がメインライターで、男女が合体して変身するんだけど、そこから僕の中のウルトラマンは混乱を始めるんだよ。合体はセレモニーとして考えればいいんだけれども、変身した後のウルトラマンは、両性なのかどうなのか? とかね。だから筆が鈍ったんだね。
本作は最終回としての役割と、次回作『ウルトラA』(*14)への橋渡しの役割も有している。『帰ってきたウルトラマン』には初代ウルトラマン、ウルトラセブンがゲスト出演していたが、最終回においてゾフィーを含めた彼らは“ウルトラ兄弟”と明言されたのだ。
*14 各メディアにもこのタイトルで発表されていたが商標の問題で『ウルトラマンA』に変更された。