壮大な山の自然を感じられる登山やキャンプがブームになって久しい。しかし山では、「まさかこんなことが起こるなんて!」といった予想だにしないアクシデントが起こることもあるのだ。
ここでは、そんな“山のリスク”の実例や対処法を綴った羽根田治氏の著書『山はおそろしい 必ず生きて帰る! 事故から学ぶ山岳遭難』(幻冬舎新書)から一部を抜粋。スズメバチに襲われた80歳ベテランクライマーの悲劇を紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)
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80歳のベテランクライマーを襲った悲劇
埼玉県在住の安田勇次(仮名)が父親とその友人2人の計4人パーティで沢登りを計画し、奥秩父の豆焼沢(まめやきさわ)に入渓したのは2016(平成28)年8月6日のことである。計画では豆焼沢を遡行して沢の途中で1泊し、翌日、雁坂(かりさか)峠に抜けて黒岩尾根を下山する予定だった。
父親は80歳という高齢だったが、国内はもとより海外遠征登山の経験も豊富で、その実力は社会人山岳会の代表を務めるほどであった。当時も雪山登山やクライミングを積極的に行なうなど、バリバリの現役として活動していた。
この日の朝、4人は車で秩父方面へ向かい、午前11時30分ごろ雁坂トンネル手前の出会いの丘駐車場に到着。12時過ぎから登山を開始した。
「お父さん、ハチに刺されて大変だよ」
駐車場からはすぐに豆焼沢に入らず、左岸の100メートルほど上部につけられている作業道をしばらく進んだ。作業道は山腹をトラバース(水平移動)するようにして豆焼沢のトオの滝の下まで続いており、父親の足でも2時間ほどで沢に下りられるはずだった。しかし、1時間半ほど歩いたところで道が不明瞭になってきたため、作業道を外れて沢に直接下りることにした。
斜面はかなり急だったが、樹林帯だったので手掛かりとなる立木もあり、問題なく下りられそうに見えた。ただ、トレイルランニング用のシューズを履いていた安田以外は、フェルト底の沢登り用の靴だったため、グリップが利かずにずるずる滑り、苦労している様子だった。
何度も尻餅をつきながら下りる父親を横目に、安田はひとり先行して斜面を下り、15分ほどで沢に下り立った。振り返ると、50メートルほど上の斜面に父親の姿が見えていて、そのうしろにほかの2人が続いているようだった。
安田が岩の上で沢登り用の靴に履き替えていると、父親が下りてきて、沢のほとりに座り込んだ。そのときは、「ああ、父が下りてきたな」と思った程度だったが、続いて父の友人が下りてくるなり、安田にこう言った。
「お父さん、ハチに刺されて大変だよ」