大学の恩師の推薦で、黒澤明(くろさわあきら)監督(1910―1998)を手伝うことになったノンフィクション作家の田草川弘(たそがわひろし)氏(当時32歳)。間近に見る世界のクロサワは、いつの時代も完璧を目指し闘っていた。
1998年9月6日“世界のクロサワ”が88歳で逝ったあの日の夜、東京は雨だった。最期の住まいは、世田谷区成城4丁目の富士見橋通りに面した低層マンション。通りをはさんで向かいにある小さな病院の駐車場には、雨よけのビニールをかぶせたテレビカメラと強いライトの放列が、弔問客の出入りをとらえていた。
濡れた歩道に立ち、傘に落ちる雨粒の音を聞きながら、私はただぼんやりとその光景を眺めていた。その30年前、監督に近い位置で過ごした2年あまりの日々の思い出が胸に蘇(よみがえ)った。
黒澤明が映画監督として活躍した半世紀の間に、残した作品は約30本。年譜をたどると、『赤ひげ』と『どですかでん』の間に空白の5年間(1965~1970年)が“断層”のように存在する。気力・体力ともに充実していた50代後半の彼は、日本映画界初の壮挙となるハリウッド進出を目指して『暴走機関車』と『トラ・トラ・トラ!』の企画に打ち込み、そして屈辱的な挫折を経験する。

真珠湾攻撃を日米双方の視点から描こうとした20世紀フォックス映画『トラ・トラ・トラ!』に対する思い入れは尋常ではなかった。“天の目”から俯瞰してこの歴史的な事件を人類の悲劇として描く。真実に迫り、“騙し討ち”という日本民族の汚名を雪(すす)ぐ。そして歴史を書き換えて見せる。途轍(とてつ)もない使命感だ。しかし、クロサワのこの巨大構想は、1968年12月、撮影途中の電撃的な「監督解任」という結末を迎え、幻(まぼろし)に終わった。
監督解任に先立つ2年間あまり、私は『トラ・トラ・トラ!』の脚本作りやリサーチの手伝いをする機会を得た。ハリウッドまでお供した時は、仕事のあと、ビバリー・ヒルズのホテルの一室で6夜にわたり監督と差しの缶詰状態。東の空が白むころ、ウィスキーの大瓶2本が空(から)になる。たわいない話が多かったように記憶するが、酔いと連日の疲れでほとんど内容を覚えていない。瞼(まぶた)に浮かぶのは、監督のあの八の字眉毛と“神が宿る”笑顔だけ。残念至極だ。
解任事件についての顛末は、拙著『黒澤明 VS.ハリウッド』(文藝春秋)に譲るが、謎にみちたあの事件は彼の人生とその後の作品にさまざまな形で影を落としたことは確かだ。起死回生を期し、家屋敷を抵当に入れて背水の陣で製作した『どですかでん』は、不評で結局赤字。そして、翌年の1971年12月、衝撃の自殺未遂事件。
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source : 文藝春秋 2013年1月号