北一輝 「いつまで押さえ切れるか」青年将校を憂いていた

大橋 秀雄 元警視庁警視正
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青年時代に中国革命に参加した後、北一輝(きたいっき)(1883―1937)は超国家主義者の立場から「支那革命外史」「日本改造法案大綱」などを執筆した。後者はのちに軍部急進派の聖典となる。二・二六事件で蹶起(けっき)した青年将校たちに思想的な影響を与えたとして昭和12(1937)年、銃殺刑に処せられた。享年54。大橋秀雄(おおはしひでお)氏は、事件直前に特高の主任として北と接触していた。その後日米戦争の直前に逮捕されたソ連のスパイ、ゾルゲ(昭和19年に死刑。享年49)の取り調べを担当したことでも知られる。

 昭和10年10月、私は中野警察署の特高主任に任ぜられました。当時は左翼の取り締まりが特高の中心的な仕事でしたが、署長からは急進的な右翼にも目を光らせるよう言われていました。その直後に国家社会主義者として著名だった北一輝が中野駅の近くに引っ越してきたので、私が担当することになったのです。

北一輝

 前に管轄していた警察署や本庁からは、北は警察や憲兵には会わないという申し送り事項がありました。

 しかし、北から情報を取らなくてはなりません。今から思えば私も若かったからできたことなのでしょう。断られることを承知で、思い切って北の家に挨拶をしに行くことにしたのです。正直言って、他に妙案が思いつきませんでした。

「私は新任の特高主任で、挨拶に伺いました」と言って、玄関で名刺を差し出すと、意外にすんなり家の中に通してくれました。堂々と正面から挨拶したのが良かったようです。それまで警察は尾行とか、出入り人を訪問したりといったことばかりしていました。

「これからは尾行などはやめてほしい」という北の申し出があり、「それなら、その代わり私と定期的に会ってほしい」と言うと、すんなり承知してくれました。

 週に2回は北の家を訪ねるようになりました。面会するのはいつも寝室で、彼はベッドの横にあった長椅子に中国服姿で胡坐(あぐら)をかきながら座っている。そして必ず夫人が同席していました。夫人は、口をはさみませんでしたが、じっとこちらの話に耳を傾けていました。会うのはいつも午後からです。午前中は法華経を読経しているから遠慮してほしいと言われていました。

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source : 文藝春秋 2000年1月号

genre : ニュース 社会 政治 昭和史