待ち合わせの時間が懐かしい――いや、今だって待ち合わせはするのだが、携帯電話が普及して相手の所在がいつでも確認できるようになってから、待ち合わせの時間が持っていた不確実性がなくなってしまった。予定の時刻を過ぎても現われない人を思って、もう気を揉むこともない。けれど、そんなふうにただ待つしかない時間を失ってみると、かつての不安で宙ぶらりんな状態には、不思議なときめきがあったような気がしてくる。
待ち合わせと言えばいつも駅の改札で、その近くには伝言板があった。出会えなかった代わりにメッセージを書き残す黒板である。多くの駅では姿を消したと聞く。通りすがりにどこの誰とも知らない人の伝言が目に留まることがあった。数時間後に消されてしまう、発信者も受信者もわからない、謎のような言葉。それは時々、辻占(つじうら)という昔の占いのお告げのようなものに思えた。

伝言板に似て、もうまったく目にしないのが新聞の尋ね人広告だ。個人が新聞広告欄を買い取って掲載する、「純 心配している すぐ帰れ 父・母」といった短い伝言である。事情はまったくわからないのに、発信者の切迫感だけはひしひしと伝わってくる。「ネットはそんな言葉だらけだ」と言われそうだが、ネットではあらゆる情報が均質化してしまうのに対して、駅に黒板が物体として置かれている存在感や、公共的な新聞記事の狭間に極小の私的メッセージが出現したときの異物感は独特なものだった。
作家の尾辻克彦(美術家の赤瀬川原平)は『東京路上探険記』(1986)で、尋ね人広告の細長い形状を電柱に喩えている。必要最小限の言葉の強い発信力を表わす卓抜な比喩だと思う。赤瀬川たちが「超芸術トマソン」と名づけた、都市の路上に残された無用で作者不明の物件の佇(たたず)まいにも、たしかに通じるものがありそうだ。応答を必死に待っている様子には、あの待ち合わせの不安が凝縮されているようで、懐かしくもある。
終わりを待っていた
わたしが20代だった1980年代(戦後80年の中間地点)に流行(はや)った超芸術の探索やその発展形である路上観察は、バブル経済下の地上げによって大都市、とくに東京から、過去の痕跡が一掃されようとする前兆を捉えた活動だった。それはノスタルジアではなく、終末論的な熱気を帯びた廃墟趣味の、どこか頽廃的なゲームだった。同時代の東京論ブームや荒俣宏『帝都物語』シリーズの人気も同様である。
わたし自身には戦前の「帝都」への憧れがあった。それもまた、松山巖『乱歩と東京』(1984)で知った1920年代の犯罪都市や、二・二六事件による戒厳令下の東京に向けた、とても暗い憧れだった。都市の歴史のそんな闇に似た何かを未来に予感して、知らず知らず胸を高鳴らせていた。
わたしがそこで待っていたのは「帝都」の終わりだったのだと思う。つまり、戦前から連続する「昭和」の終わりである。高齢の天皇が近いうちに亡くなることは誰しもわかっていたからだ。わたしの世代は「戦後」の起点となる、決定的な敗北による「終わり」を知らない。わたしが評伝を書いた建築家・磯崎新が終生あらゆる都市・都市計画の背後に幻視した、故郷・大分が戦災で焼き尽くされた光景にあたるものを、日本に生まれ育ったわたしは経験してこなかった。
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