「勝てば黄禍、負ければ野蛮」

第262回

塩野 七生 作家・在イタリア
ライフ 国際 歴史

■連載「日本人へ」
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第259回 元勲も、女の視点から見るとしたら?
第260回 愛の讃歌
第261回 外交オンチは国民病?
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 右の一句で始まる一篇の詩を森鷗外が、日露戦争の最中にすでに書いていたとは知らなかった。この戦争には軍医として参戦する鷗外、その年四十二歳。だからかこの詩は、「黄禍」と題してはあっても鷗外のこと、白人側の無知に腹は立ててもその想いは、静かな諦観に向うよう。西欧での黄禍さわぎはこの十年前の日清戦争で日本が勝ったときから始まっていたのだから。

 言い出しっぺは、ドイツ皇帝のウィルヘルム二世。この人は、同じ皇帝仲間のロシア皇帝ニコライ二世に書く。「ロシアの大いなる将来がアジアの開拓と、モンゴルや仏教の侵入からキリスト教のヨーロッパ文明を守ることにあるとあなたが気がついてくれたことに、ヨーロッパはあなたに感謝しなければならない」

 ちなみに日清戦争は一八九四年、ドイツ皇帝がロシア皇帝をけしかけた年は一九〇〇年、日露戦争が勃発するのは一九〇四年。

 この二十年前にはドイツに留学していて、その後もヨーロッパ情報には不足していなかったにちがいない鷗外である。自身も軍医で参戦するに際し、勝てば黄禍、負ければ野蛮、と吟じたとしても当然だった。まだ四十代であったのだし。

 ところが今度も勝っちゃったのだ。日清戦争は日本も清もイエロー同士だが、日露となるとイエロー対ホワイトになる。そのうえ一九〇四年二月に始まり、翌一九〇五年九月の日露講和条約締結で終わらせるという早わざでケリをつけるのにも成功する。始めるのは簡単でも終わらせるのは難事になるのは、多くの戦争の実態なのに、である。

 また、ちょっとした戦果に気をよくして冬のロシア深くに軍を進めなかったのもよかった。九十二年昔のナポレオンや、三十六年後にくるヒットラーの轍は踏まなかったのだ。

 しかも、明治の男たちには外交オンチがいなかったのか、と思うほどの情報収集に対する認識とそれを行ううえでの執念の強さ。モスクワ駐在からの帰途はシベリアを横断して日本まで、というのは一人にかぎった話ではない。ロシア内部の攪乱に従事した明石元二郎やアメリカ大統領にはりつきつづけた金子堅太郎のような著名な例ではなくても、多くの日本人がそれぞれの立場で、これは自分の仕事ではないなどとは一言も言わずに祖国のために力をつくしたのである。また、政府のほうにも、彼らの努力を受け入れて活用するだけの柔軟性があった。

 しかし、幸運と言えば、三十三年前に日本では、廃藩置県を断行していたことを一番にあげねばならない。あれをしていたからこそ可能になった事柄を列記すれば、次のようになる。

 一、士農工商の差を建前にしても無くしていたこと。それによって徴兵制を実施でき、国民軍を作れるようになっていたことだ。

 二、そのうえ、廃藩置県によって大量に出た失業武士たちを、軍事面で活用できたこともある。指揮官クラスに至っては、オール旧士族と言ってもよかったのだから。なんとなく、第二次世界大戦に敗れた直後の日本みたい。軍隊はすべて廃止されたから、やむをえずにしろ旧軍人たちは、いっせいに経済界に流れたのである。あの時期の日本の経済人たちの頭脳水準は、世界一ではなかったかと思うほど。その後に訪れる経済の高度成長も、当り前ですよね、これでは。

 それにしても、日露戦争での日本側の勝利は圧倒的であった。研究者たちの間では、陸上戦では「辛勝」ということになっているらしいが、責任を問われて本国に召還されたのはロシア側の将だけで、日本側には一人もいない。乃木将軍も召還されても仕方なかったかもしれないが、この人の場合も一時的に軍紀違反を犯すという秘策(、、)によって穏便にことを解決している。そのうえ、冬のロシアに深入りするという愚は犯さないうちに終戦にもっていったのだから、欧米からの観戦武官たちの眼には、陸上戦でも「勝ちは日本」と映ったのも無理はない。そして海上戦となるや、文句のつけようもない日本の勝利で終始したのだった。

 世界史上でも、海戦での勝利が「決定打」になった例はある。紀元前にペルシアとギリシアの間で戦われた「サラミスの海戦」。紀元後にイスラム勢とキリスト教勢がぶつかった「レパントの海戦」。いずれも、勝った側にとっては、圧勝ではあったが完勝ではなかった。いかに少数ではあっても、戦場から逃げるのに成功した艦船はいたのだから。一方、日露戦争での海戦は、日本側の完勝で終わる。失ったのは水雷艇三隻のみ。一艦たりとも残さず撃沈せよ、と命じられた東郷平八郎以下の将兵たちはすさまじい重圧に苦しんだと思うが、見事にそれをはね返す。このときの海戦は、世界史上にも類を見ないほどの勝戦であったので、欧米人でも戦史研究者ならばわかっていて正当に評価してもいる。彼らはこれを「ツシマ沖海戦」と呼んでいるけれど、日本側はあくまでも、「日本海海戦」と言いつづけるべきであった。日本海の制海権がかかっていた海戦であったのだから。

 ただし、正当に評価してくれたところまでは同じでも、その評価が理性的だと不平等条約の改正につながり日本のためになったのだが、感情的になるや「黄禍」になっていくのだから始末が悪い。今度の「黄禍」の旗ふり役は、ロシアとの講和の成立に人一倍力をつくしてくれたアメリカになるのである。そしてこの風潮は、わが日本にも責任がないわけではないのだから、さらに始末が悪いのだった。

「勝てば黄禍、負ければ野蛮」は何も、明治の昔の話ではない。

 第二次大戦で敗れた日本に進駐してきたマッカーサー将軍が、日本は十二歳の少年、と言ったことを、あの頃少女であった私でも思い出す。あの時期の一ドルは三百六十円だった。その後に日本が経済成長をとげた時期、アメリカの議会前で議員たちが、日本製の自動車をたたき壊す情景をテレビで見たことも思い出す。その頃の一ドルは百二十円台まであがっていた。そして今、一ドルは、ヨーロッパでの購買力から見て、百八十円と思ったほうが安全。

 問題は、為替だけではない。欧米メディアも東京には特派員を常駐させる必要はないと思っているのか、今や特派員は各国とも北京に。日本に関するニュースもこちらには北京経由で伝わる。中国経由だから、日本にとっては悪いことしか報じない。G7でも、日本の首相を写すカメラマンもいない。日本には、日本人の記者しか取材しない記事や日本人のカメラマンしか写さない写真が伝えられるのだろうが。

 これが、「黄禍」と見なされなくなって久しい日本の姿である。「黄禍」と非難されなくなったことはけっこうでも、「野蛮」どころか問題にもされない存在になったことは確かな、今の日本の姿である。ということは、日露戦争に勝った日本は、その後長きにわたって、何一つ学ばなかったことになりはしないか。勝ってカブトの緒を締めよ、とか、建艦競争に熱心になったりするようなことばかりではなくて別のやり方で、「黄禍」的注目でなく、かといって「野蛮」的蔑視でもなく、それでも注目には値する存在への国の行方を探るとか。

「勝てば黄禍、負ければ野蛮」とは、欧米的な基準に基づいた判断である。それに従っているかぎり、日本は、まるでジェットコースターのように、急激に上ったり下がったりをくり返すだけの国になってしまう。それがイヤならば、欧米の判断基準を超越した“何か”を考え出さねばならない。「日本海海戦」だって、欧米の観戦武官や記者たちの判断を越えた基準を用意して勝ったのですよ。今のわれわれにだってできないはずはない、と思うけどいかが?

(六月十八日記)

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source : 文藝春秋 2025年8月号

genre : ライフ 国際 歴史