いつもご愛読いただき、ありがとうございます。
5月特別号の目玉企画は「私の人生を決めた本」。各界を代表する読書家81人による最強ブックガイドです。
次々に寄せられる原稿を読んでいてつくづく思うのは、読書遍歴を聞くとは、つまり、その人が歩んできた人生そのものを聞くのに等しいということです。
例えば、この特集には3人の政治家が登場して、それぞれ師と仰ぐ存在について語っています。
外務大臣の林芳正さんは安岡正篤、法務大臣の齋藤健さんは原敬、自民党選対委員長の森山裕さんは西郷隆盛。それだけで3人の政治信条、目指す国家像が伝わってきます。
同じ本を挙げた方も複数いました。成田悠輔さんと近藤康太郎さんは大西巨人の『神聖喜劇』。亀山郁夫さんと橘玲さんはドストエフスキーの『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』、『悪霊』。ロシア文学者の亀山さんがこの3冊を紹介しているのは想像通りとも言えますが、橘玲さんは、同じ3冊を含めたドストエフスキーのすべての長編を読んで、ロシア文学科のある東京の私立大学を受験したそうです。
鈴木敏夫さんにとっては、レヴィ=ストロースを読んだことが、後に宮崎駿さん独特の仕事のやり方を理解するのに役立ち、探検家でもある高野秀行さんの場合は、その「構造主義」が南米やニューギニアの先住民の言動の「謎解き」に感じられたというのも、大変興味深い。
カミュの『シーシュポスの神話』(『シジフォスの神話』)を挙げたのは、山根基世さんと庄司紗矢香さん。大学時代にこの作品を読んだ山根さんはこう感じたそうです。
〈どうせ最後は死ぬとわかっている生に、へっぴり腰でしがみついている自分をあざ笑うような頭でっかちだった私。「目の前の一歩を大切にする」のかと、諦めのような希望が湧いた。〉
20代前半に読んだ庄司さんの感想はこうです。
〈日本に限らず、同調を重んじる「社会」で生きていくことの困難に対し、逃避せず、真実を熟考し、疑問を凝視する勇気をくれた本だ。〉
山根さんはその後、NHKのアナウンサーになり、庄司さんはヴァイオリニストになりました。
また芥川賞選考委員の松浦寿輝さんには直木賞を受賞した小川哲さんと対談していただきましたが(「『読むこと』『書くこと』」)、初めて最初から最後までフランス語の原書で読み通したのが、この本だったそうです。
「編集だより」にも書きましたが、実は今月号で『シーシュポスの神話』に言及した方がもう一人います。夫の逮捕を受けて、単独インタビューに応じてくれた三浦瑠麗さんです(「夫の逮捕で考えたこと」)。
拘置所にいる夫にこの本を差し入れたという三浦さんはこう語っています。
〈神々の罰により、何度岩を山頂まで運んでも転がり落ちる、それでも生き続けなければいけない人生の不条理を説いた本です。今の夫へのメッセージも多分に込めています。〉
ちなみに今回ご登場いただいた方の中で、私に一番近いのが、北村滋さんです。リチャード・ニクソンの『指導者とは』、シャルル・ド・ゴールの『剣の刃』は、いずれも私にとって座右の書。推薦してくれたのは、昨年お亡くなりになったJR東海名誉会長の葛西敬之さんです。葛西さんは私の読書の指南役であり、北村さんとも深い親交がありました。
本との出会い、人との出会いが私たちの人生を決める。そんなことが実感できて、編集者冥利に尽きる特集でした。
文藝春秋編集長 新谷学
source : 文藝春秋 電子版オリジナル